【幕藩体制とは】簡単にわかりやすく解説!!意味は?成立から崩壊まで

 

奈良時代に生まれた荘園は院政期には荘園公領制として確立しますが、不輸の権や不入の権もあり幕府が土地や人民を統治しているとは言えない状態でした。

 

この荘園制を解体したのが豊臣秀吉であり、太閤検地によって統治者が土地や人民を支配する体制に変わっていきます。

 

これが幕藩体制の始まりと言われ、徳川家光の時代に確立したとされています。

 

今回は、『幕藩体制』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

幕藩体制とは?

 

 

幕藩体制とは、江戸時代の政治体系のことで、将軍と大名すなわち幕府と藩が土地と人民を統治する支配体制のことです。

 

土地の統治について、豊臣秀吉の太閤検地により荘園領地制が解体されたことで、権利関係の整理や年貢や賦課(ふか)、知行(ちぎょう)などの正確な情報が中央で把握できることになりました。

 

人民の統治についても、豊臣秀吉の刀狩りによる兵農分離も大きな影響を持ち、武家諸法度公家法度などの統制により確立していきました。

 

幕藩体制の成立

 

幕藩体制の成立には土地の人民の支配が不可欠になりますが、ともに豊臣政権時代に一定の方向性が形づくられていきます。

 

①幕府の藩の関係

1585年に豊臣秀吉が朝廷から関白を任じられると、翌年には太政大臣となり豊臣姓を与えられます。

 

 

(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

 

 

秀吉はこれを理由に天皇から全国の支配権を委ねられたと称して、戦国大名に停戦を命じます。

 

さらに1588年に聚楽第(じゅらくてい)を新築し後陽成天皇を迎え、諸大名に天皇と秀吉に忠誠を誓わせます。これにより、支配者と大名の主従関係が成立します。

 

秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いで東軍の将として勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。

 

 

(徳川家康 出典:Wikipedia)

 

 

家康が子の徳川秀忠に将軍を譲ると、1615年の大坂の役直後に一国一城令武家諸法度(元和令)により大名を厳しく取り締まります。

 

 

1635年には、3代将軍の徳川家光参勤交代を義務づける内容を盛り込んだ武家諸法度(寛永令)をだします。

 

これにより、将軍と諸大名の主従関係が確立することとなります。

 

②土地支配

土地については、荘園領主制は室町時代まで機能していたものの、戦国大名が武力で領国を支配する戦国時代には徐々に崩れていきます。

 

また、領国ごとの分国法がつくられ、各地で土地の支配のあり方にばらつきがでてきます。

 

16世紀末になると、秀吉の太閤検地により支配者が全国の土地を把握することができるようになります。

 

さらに石高制をとることで単位の統一し土地は支配者の管理のもととなりました。

 

 

また、秀吉は全国統一が完成すると、家康を勢力基盤であった東海から関東に、伊達政宗を米沢から一揆で荒廃した葛西大崎旧領に転封します。

 

関ヶ原の戦いに東軍として勝利した家康は、これに倣い西軍の諸大名90440万石を領地没収とする改易に処し、毛利輝元120万石から30万石に、上杉景勝には120万石から30万石に減封としました。

 

これらは東軍に加増され、新たに28の譜代大名が取り立てられることになります。

 

秀忠は、大名を親藩・譜代・外様にわけ、親藩や譜代で要所を押さえ、外様を辺境の地へ追いやりました。

 

このように、秀吉以降は支配者によって統一した単位のもとで管理されることが定着していきます。

 

③人民支配

ここでも秀吉の政策がきっかけとなります。

 

1588年には百姓を農業に専念させるために刀狩り令をだし、1591年には人掃により、武士に召使われている奉公人が町人や百姓になること、百姓が商売人や職人なることを禁止します。

 

この身分統制により、百姓の身分を明確なものとし、武士と町人と百姓と職業による身分の違いが定められ兵農分離が完成します。

 

引き続き、江戸時代にも士農工商という身分制が定着していきます。

 

 

④鎖国

16世紀半ばに鉄砲やキリスト教が伝来すると、南蛮貿易とキリスト教の布教活動が盛んに行われるようになりました。

 

 

しかし、秀吉は目指す国家体制を築くためにはキリスト教が妨げになると考え、16世紀末にバテレン追放令をだしてキリスト教宣教師を国外追放を指示します。

 

 

一方、貿易は東アジアを中心に積極的に行いました。

 

江戸幕府では当初はキリスト教を黙認していましたが、キリスト教の布教とともにスペインやポルトガルの侵略やキリスト教徒の団結を恐れをいだきます。

 

1612年には、直轄地での禁教令をだし翌年には全国的に広げていきました。

 

 

幕府の強い迫害に対して殉教者や隠れキリシタンも根強く残り、1637年には壮絶な一揆となった島原の乱が起きます。

 

 

こののち1639年にはポルトガル船の来航を禁止し、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移すと鎖国が完成します。

 

この鎖国は幕藩体制の成立や維持の大きな要因の一つとなりました。

 

幕藩体制の崩壊

(黒船来航の様子 出典:Wikipedia)

 

 

幕藩体制が最終的な崩壊を迎えるまでに、開国大政奉還解放令地租改正など段階的に崩壊への道をたどります。

 

①開国

19世紀中頃には、アメリカからペリーがロシアからはプチャーチンが使節として来航し開国を求めます。

 

1854年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約が結ばれたことで事実上の開国となりました。

 

 

これにより、幕府は外国からの脅威を受けることになります。

 

②大政奉還

開国への動きの影響は大きく、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した大老の井伊直弼は、反対派を弾圧し安政の大獄で橋本左内や吉田松陰らを処刑にします。

 

 

(井伊直弼 出典:Wikipedia)

 

 

その後、桜田門外の変で直弼は暗殺され、幕府の威信は陰りを見せはじめます。

 

幕府は権力を維持させようと、朝廷と協調する公武合体政策をすすめますが、天皇を第一と考える「尊王論」と外国人を追い払う「攘夷論」が結びつき、尊王攘夷への動きが下級藩士を中心に激しくなります。

 

 

外国への脅威や天皇を第一にという考えから、尊王攘夷論は倒幕と開国へ転換していきます。

 

薩長両藩による武力倒幕の機運が高まる中、1867年に土佐藩の後藤象二郎と坂本龍馬が前藩主の山内豊信(容堂)を通じ15代将軍徳川慶喜に政権の奉還を進言します。

 

 

(徳川慶喜 出典:Wikipedia)

 

 

すると慶喜はこれを受け入れ大政奉還を申し出ました。

 

これで、政権は幕府の手から離れることになります。

 

③解放令と地租改正

1869年の版籍奉還により主従関係により成り立つ封建的な身分制度が改められ、華族・士族・平民に分けられます。

 

 

1871年には解放令が布告され差別階級も平民となり、四民平等の世になりました。

 

 

1872年には、田畑永代売買の禁止を解き、土地所有者には地券を交付するなど土地の私有制度を確立します。

 

 

さらに翌年の1873年に地租改正条例が発せられると、地下をもとに税率を決めるなど地租改正がすすめられます。

 

 

これにより幕藩体制の全ての要素が解体され、崩壊しつつあった体制が完全に解体することになります。

 

幕藩体制の意義

 

 

戦国時代の戦乱が落ち着き、幕藩体制のもとで安定した期間が続いたことにより、産業や経済の面で発達が見られました。

 

戦で農地を荒らされたり戦場に駆り出されることがなくなった百姓は、備中鍬千歯こなどの農具や油粕干鰯などの肥料の発達により生産力を高めました。

 

 

また、年貢用の米のほか、商品作物の栽培をする地域が増え、各地に特産物も生まれました。

 

さらに、参勤交代は幕府と藩の主従関係の象徴とされますが、街道の整備や宿場町などの発達にもつながりました。

 

まとめ

 幕藩体制とは、江戸時代の政治体系のことであり、将軍と大名すなわち幕府と藩が土地と人民を統治する支配体制のこと。

 豊臣秀吉政権での兵農分離政策や石高制、バテレン追放令などは、江戸時代の徳川政権での幕藩体制の確立に大きな影響を及ぼした。

 幕藩体制は19世紀末に崩壊を迎えるものの、強固な支配体制が長く続く中で産業や経済などの発展につながった。