今回は『討幕の密勅』についてわかりやすく解説していきます。

 

討幕の密勅とは

 

討幕の密勅とは、1867(慶応3)年10月14日に朝廷が薩摩・長州両藩に対してひそかに出した討幕の勅書のことです。

 

討幕とは、武力を使って幕府を倒すこと。勅とは、天皇が出す命令のことです

 

この密勅は形式が異例なため、偽物だったのではないかという説があります。

 

討幕の密勅が出るまでのあらすじ

①攘夷の失敗

1858年、日米修好通商条約が結ばれた後、庶民は物価の高騰などに苦しみました。

 

そのため、「外国を追い出せ!」という攘夷論が盛んになります。

 

特にこの攘夷論を強く唱えていたのが長州藩。長州藩は幕府や朝廷に働きかけ、攘夷を決行させようとします。

 

また、生麦事件でイギリス人を殺傷した薩摩藩もイギリスとの関係が悪化していました。

 

 

1863年3月に上洛した14代将軍の徳川家茂は「攘夷をしろ!」という内外の圧力に負け、朝廷に「5月10から攘夷を実行します」と約束します。

 

これにより、長州藩や薩摩藩は外国と戦う理由ができました。

 

しかし、長州藩は四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)で、薩摩藩は薩英戦争でそれぞれ敗北してしまいます。

 

薩摩藩と長州藩は攘夷の不可能を悟らざるを得ませんでした

 

②薩長同盟

薩摩・長州の両藩は、外国と対等な関係になるためには外国の技術を取り入れるだけではなく、日本も欧米のように中央集権の国を作るべきだと考えるようになります。

 

しかし、江戸時代の日本は中央集権には程遠い状態でした。

 

そこで薩摩・長州両藩は、日本を一つにするためには江戸幕府を倒して天皇中心の国を作らなければならないと考えます。

 

そして、1866年土佐藩出身の坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれました。この同盟は、幕府を倒すことを目的とする軍事同盟です。

 

 

③孝明天皇の死

(孝明天皇 出典:Wikipedia

 

 

孝明天皇の存在は、薩摩藩や長州藩にとって厄介なものでした。

 

というのも孝明天皇は外国嫌いで徹底的に攘夷をするべきだと考える一方、幕府を倒すつもりはありませんでした。

 

孝明天皇は朝廷と幕府が手を組むべきだとする公武合体の考え方を持っていたのです。そのため、妹の和宮と14代将軍家茂の結婚も許可しました。

 

 

しかし、1867年12月25日、孝明天皇が疱瘡という病で急死してしまいます。薩長両藩にとって、もっとも厄介な人物が死んだのです。

 

あまりのタイミングの良さから、孝明天皇は討幕派によって毒殺されたのではないかとの説が出たくらいですが、真相は不明です。

 

かわって即位した明治天皇は15歳。孝明天皇のように、公武合体を進めるという考えは示していませんでした。

 

④討幕派と岩倉具視の接近

(岩倉具視 出典:Wikipedia)

 

 

岩倉具視は中級貴族でした。

 

岩倉は孝明天皇の信用を得て和宮と14代将軍家茂の結婚などで活躍しましたが、「幕府に近すぎる」と尊王攘夷派に批判され隠居させられていました。

 

そこで薩長は岩倉の政治力に目を付けます。

 

隠居させられていた岩倉は表舞台に出ることができませんでしたが、裏から有力公家を動かします。

 

そして、1867年10月14日、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下されました。

 

討幕の密勅の内容

(討幕の密勅 出典:Wikipedia

①内容

討幕の密勅では、徳川慶喜がみだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視していると批判しています。

 

このまま徳川慶喜を放置していれば日本は滅びてしまうので、この命令を書を受け取ったもの(薩摩藩主・長州藩主)は速やかに徳川慶喜を滅ぼせとも命じています。

 

②偽勅説

この討幕の密勅は、以前から偽物だったのではないかとの疑いがあります

 

天皇が出す命令には一定の形式がありますが、その形式とあまりに違うからです。

 

本物とみなすには、「あやしい」ものだったことは間違いありません。

 

薩長や岩倉は、かなりきわどい「密勅」を使ってでも幕府を倒したいという執念をもっていたことがうかがえますね。

 

討幕の密勅後の動き

(大政奉還 出典:Wikipedia)

①大政奉還

徳川慶喜は同じ10月14日、朝廷に対して大政奉還を行いました。

 

慶喜は幕府を廃止して、政治の権限を朝廷に戻すことを申し出たのです。

 

このことは、討幕の密勅の効力を失わせました。

 

慶喜が朝廷に逆らわないことを大政奉還の実行によって示したからです。

 

そして10月24日には密勅の実行延期が薩長両藩に告げられ、討幕の密勅は失敗に終わります。

 

慶喜が大政奉還を行った理由は、朝廷には政治の能力がなく、すぐに自分を頼ってくるだろうという考えがあったからです。

 

 

②王政復古の大号令

なんとしても、徳川慶喜を排除したい薩摩藩・長州藩・岩倉具視は次の手を考えます。

 

その手とは、天皇による政治の復活を世に示す王政復興の大号令を出すことでした。

 

まず、幕府や摂政・関白をすべて廃止。その次に、皇族の有栖川宮を総裁、有力公家や大名を議定、有力藩士を参与とする三職をおきました。

 

そして、これらの役職から徳川慶喜は排除されることになります。

 

つまり、これにより新政府は慶喜抜きの政治体制となることが宣言されたのです。

 

 

③小御所会議

王政復古の大号令が出された12月9日の夜、宮中の小御所で会議が開かれました。

 

これは新たに任命された三職が小御所に集められて行われた会議でした。

 

岩倉具視や薩摩藩の大久保利通ら武力討幕派は、徳川慶喜に内大臣の地位と徳川家が持つ400万石の領地を朝廷に返上するように要求します(辞官納地)。

 

しかし、これに対して土佐藩主山内豊信や越前藩主松平慶永らは慶喜の政権参加を求めます。

 

議論は白熱しますが、岩倉が「この決定は天皇が下したものである」といって反対派を黙らせました。

 

 

④戊辰戦争

小御所会議の決定に反発した旧幕府は京都に進軍。これにより戊辰戦争が始まりました。

 

戦いは1868年から69年まで続きました。

 

そして、1869年五稜郭に立てこもった旧幕臣の榎本武揚が降伏し戊辰戦争は終わりました。

 

 

まとめ

・討幕の密勅とは、薩摩藩と長州藩に下された幕府を武力で倒せという天皇の秘密の命令のこと。

・攘夷に失敗した薩摩藩と長州藩は、幕府を倒すことで日本を一つにまとめようとした。

・薩摩藩と長州藩は坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結んだ。

・公武合体派の孝明天皇の死は、薩長に討幕のチャンスを作った。

・岩倉具視と薩長が手を組み、討幕の密勅を出させることに成功した。

・討幕の密勅は、今までに出された天皇の命令とあまりに形式が違うので偽物説が出た。

・討幕の密勅は、徳川慶喜が機先を制して大政奉還を行ったため、効力を失った。

・王政復古の大号令と小御所会議で徳川慶喜は新政府から排除された。

・反発した旧幕府はと新政府の間で戊辰戦争が行われ、新政府が勝利した。




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