“禁教令”は歴史の中でも比較的イメージしやすい法令ではないでしょうか。
しかし、具体的内容になると少し曖昧なところも出てくるかもしれません。
今回はそんな『禁教令』について時代を追って、わかりやすく解説していきます。
目次
禁教令とは
禁教令とは、簡単に言うとある宗教を信仰したり布教したりすることを禁ずる命令のことです。
日本においては特にキリスト教を禁じていたものを指し、「キリスト教禁止令」とも呼ばれます。
通常、単に禁教令というときは1612年と1613年に江戸幕府が出したキリスト教を禁じる法令を指していますが、広くとらえると、安土桃山時代から明治時代まで禁教令をみることができます。
順をおって解説します。まずは安土桃山時代について。
安土桃山時代の禁教令
①最初の禁教令
最も早い禁教令とされるのが、正親町天皇(おおぎまちてんのう)が1565年に出した追放令であり、これは京都の宣教師を追放するという趣旨だったようです。
(正親町天皇 出典:Wikipedia)
この天皇は織田から豊臣の政権最盛期に、皇室の権威維持に努めた天皇としても知られています。
②秀吉の政策
元々キリスト教に寛容だった豊臣秀吉ですが、1587年にはバテレン追放令を出し、キリスト教布教の制限を表明します。
九州征伐後に長崎がイエズス会領になっていることを知ったのがきっかけでした。
キリシタン大名大村純忠が、長崎をイエズス会に寄進してしまっていたのです。
加えて、九州のキリシタン大名と宣教師たちが日本人の奴隷貿易に関わっているという話も耳に入ってきたので、『これはいかん!』と布教の禁止を目的として、キリスト教宣教師に国外退去を命じたわけです。
しかしながら、当時は南蛮貿易の影響が強く、退去を命ぜられた宣教師からの抗議もあり、追放令以後も制限付きながら宣教師達が活動を続けることを秀吉は黙認する形をとったのです。
つまり、ここでの禁教令はあくまで形式的なものでしかなく、実際この時期くらいから洗礼者は激増し、キリスト教は活発な動きを見せていました。
「バテレン追放」というかなり強めの言葉ではありますが、キリスト教自体を目の敵にしたわけではなかったようですね。
ちなみにバテレン(伴天連)とは、ポルトガル語の「padre=神父」を指す言葉です。
③秀吉の態度硬化
(26人の処刑を描いた版画 出典:Wikipedia)
1596年再び禁教令を出した秀吉は、京都にいたフランシスコ会などの教徒を捕らえ、長崎に連行して磔にしてしまいました。
この中には日本人もおり、後にローマ法王によって日本二十六聖人に列せられています。
この理由として挙げられるのが、【サン=フェリペ号事件】です。
同年土佐にこの船が漂着し、船員が「スペイン国王が、キリスト教布教により他国を征服する為、宣教師を送り込んでいる」という話をした、ということからキリスト教を警戒したと言われています。
江戸幕府による禁教令
当初、江戸幕府はこれまでと同様の政策で、特に弾圧は行っていませんでした。
しかし、幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し、活動を活発化させていくキリスト教に対して脅威を感じていたこと、その教え『神の前ではみな平等』が幕府にとって非常に好ましくなかったのは明白です。
どのように幕府は禁教を強めていったのでしょうか。
①岡本大八事件
1609年ポルトガル船マードレ・デ・デウス号が長崎で撃沈されます。
その事後処理をめぐり収賄事件が発覚、当事者の有馬晴信と岡本大八が共にキリシタンであり、またその調査の過程で駿府の家康の身近に隠れたキリシタンが多くいたことが判明。
驚愕した家康により禁教令が発令されることになるのです。
②慶長の禁教令
一般に言われる「禁教令」はこの2つを指します。
まず、1612年幕府は直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じます。
同時に諸大名についても同様の施策を行っていきますが、これが江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令となりました。
ここでは家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査も行われ、該当したものは改易処分になるなど厳しい処置がとられました。
そして翌1613年この禁教令を全国へ広げます。
この法令により、長崎や京都の教会は破壊され、宣教師はマカオやマニラに追放されました。
ただし、公的にはキリスト教は禁止になったのですが、信徒の処刑などの徹底的な対策は行われなかったので、まだ依然として宣教師達の活動は続いていたようです。
徹底できなかった原因としてはここでもまだ南蛮貿易の影響があったようです。
③元和年間の弾圧強化
当時は禁教令が出ても、少し目をつぶっている面もありました。
ところが、いろんな出来事が徐々に明るみになることで、流石に幕府も信徒の発見や改宗に力を入れていくようになります。
【京都の大殉教】
京都所司代が元々キリシタンに好意的だったようで、禁教令が出てもデウス町というところには多くキリシタンが住んでいました。
これを半ば黙認していたのですが、禁教令があいついで出されたことで流石に…とキリシタンを牢屋にいれることでお目こぼしを得ようとしました。
ところが、逆に将軍直々に処刑を命じられてしまいます。
1619年京都市中引き回しの上52名処刑されますが、この中には4人の子供や1人の妊婦も含まれていました。
【元和の大殉教】
1620年には日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかります。
平山常陳事件(ひらやまじょうちん)。この件により、ますます不信感を強めた幕府は大弾圧へと踏み切りました。
キリスト教徒の大量捕縛を行い、1622年にはかねてから捕えていた宣教師ら55名を長崎西坂にて処刑したのです。
この大殉教は幕府のキリシタン弾圧の画期となり、各藩の徹底的な弾圧を促進していくことになりました。
一方、処刑者の中にはイエズス会の有力者もおり、この大殉教は対外的な影響も大きかったようです。
この知らせはマニラにおける殉教熱をあおり、以後宣教師の決死的潜入が続出します。
なおこの殉教を描いた絵画が、ローマのイエズス会の聖堂に掲げられているそうです。
④鎖国と島原の乱
1616年に秀忠は最初の鎖国令である「二港制限令」を出し、明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定します。
その中で下々にまでキリスト教の禁止を厳格に示しました。
以後、構築されていく鎖国体制が、宣教師の侵入を防ぐ側面を持つことで、潜入を試みていた宣教師も姿を消していくようになります。
しかし、その過程で起こった島原の乱(天草・島原一揆)は歴史上最大の一揆であり、その直接原因は重税などでしたが、参加した人々がキリスト教を拠り所としていたことから、幕府に与えた衝撃は非常に大きいものでした。
乱の鎮圧後、さらに禁教と鎖国体制確立が加速していったのです。
⑤幕府の諸政策
元和から隠れキリシタンの発見と強制改宗(棄教)を推進していく幕府でしたが、その政策は世界にも類をみないほど徹底していました。
五人組制度を活用、寺請制度を創設して社会制度からキリスト教徒を発見及び締め出し、また密告を奨励して報償金を与えました。
有名な踏み絵などもありましたが、これは偽装棄教などで形骸化していったみたいですね。
キリシタン側も、色んな対策で幕末まで独自の信仰を貫いたようです。
また、元和年間は大量処刑もありましたが基本的には棄教させることが目的だったので、その後は死刑になる者よりも苛烈な拷問により死亡したり、棄教したりする者の方が圧倒的に多かったようです。
明治政府による禁教令
①基本方針
幕末に開国が始まると、外国人居留地では信仰の自由と活動が認められるようになります。
しかしながら、依然日本人に対する布教や日本人の信仰は禁止されていました。
明治政府は1868年5枚の高札(公的な布告として使われたもの)により「五榜の掲示」を出しましたが、その中で幕府からの継承として禁教令を出しています。
②条約改正と禁教令の廃止
1867年に長崎県浦上村の隠れキリシタンが発見され、信徒の弾圧として流刑や拷問、私刑が横行しました。
その結果「五箇条の御誓文」で国際法を守ると謳いつつ高札でキリスト教を禁止した日本政府の姿勢と、苛烈な非人道的行いに対して諸外国から猛反発をくらいます。
禁教令に対して列強諸国から厳しい非難を受け、またそれが条約改正への最大の障害であることが判明するのです。
そこで政府は諸国からの内政干渉を避けるためにも、政教分離政策を進めていきます。その中で高札制度の廃止に伴い、キリスト教も黙認されるようになっていくのです。(実質禁教令の廃止)
1889年大日本帝国憲法では、信教の自由を保障する規定を設けていますが、政府として正式にキリスト教活動を認めたのは1899年になってからということです。
禁教令の語呂合わせ
「禁教令」の語呂合わせは以下のようにまとめて覚えるとよいでしょう。
・1612 禁教令(直轄領) 路頭に(612)迷う キリスト教徒 直轄領に禁教令
・1613 禁教令(全国) そして翌年広がる 全国へ
まとめ
・「バテレン追放令」はあくまで宣教師の追放が目的で、キリスト教への弾圧が目的ではなく、また形式的なものであった。
・「禁教令」の徹底できなかった要因としては、南蛮貿易を重視していたことが大きい。
・「キリスト教による他国からの侵略」と「キリスト教徒の団結による反乱」への危惧が禁教令を発布し、教徒を弾圧していった大きな原因。
・鎖国政策により宣教師の潜入も減少し、徐々に弾圧も沈静化していった。
・開国による列強諸国の影響により、禁教令自体事実上廃止の方向へ進んでいった。