天下統一を目論み、着実に近付いていた戦国武将「織田信長」でしたが、無情にも目前にして家臣「明智光秀」の裏切りにより自害する事となるのでした。

 

それを最もものにして勝ち組に成り上がったのは、信長の子でもなく光秀でもなく信長の家臣の一人であった豊臣秀吉でした。

 

その最も契機となったのが中国大返しです。

 

今回は、この『中国大返し』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

中国大返しとは?

 

1581621日の本能寺には、茶会終わりの織田信長が宿泊していました。そこへ突如として本能寺を包囲したのは、信長の家臣「明智光秀」でした。

 

大軍の光秀に対し、100程度の手勢しかいなかった信長は、本能寺であえなく自害します。

 

その知らせを聞いた備中高松城攻めの真っ只中だった豊臣秀吉は、敵の毛利家と早急に講和をまとめると光秀を討つべく、京までわずか10日あまりで200キロもの大移動を成し遂げたのです。

 

この、10日間にわたる軍団大移動のことを中国大返しといいます。

 

中国大返しの背景

(本能寺焼討之図 出典:Wikipedia)

①本能寺の変

まずそもそも中国大返しは、本能寺の変が起きなければ起き得ませんでした。

 

備中高松城攻めに苦戦している秀吉から応援要請を出された信長でしたが、前日には京で茶会を催しており、京の本能寺に宿泊していました。

 

そこへ何の前触れもなく軍勢を引き連れたのが、信長の家臣「明智光秀」です。

 

信長の命で秀吉の応援に出陣したはずの光秀は、こともあろうか謀反を起こし主君信長のいる本能寺を襲撃したのでした。

 

いくたの戦を乗り越えた信長とは言え、13000とも言われる光秀に対し僅か100程度の手勢しかいない信長にもはや勝ち目はありませんでした。

 

結局、自ら火を放ち自害したと言われる信長でしたが、光秀の誤算は信長の首を発見することが出来なかった事です。これは、未だに謎とされています。

 

 

②備中高松城の戦い

その頃光秀の同僚でもある豊臣秀吉は、信長より中国攻めの責任者に任命され、その任にあたっていました。

 

当時の中国は、毛利家が勢力を拡大していた地ですが、信長に応じる気はなく、その中国平定を信長は目論んでいたのです。

 

しかし、そこに立ちはだかったのが、備中高松城で長期戦にもつれこんでいました。

 

(高松城水攻築堤の図 出典:Wikipedia)

 

その上、この城を落とされると後がない毛利勢も3万とも言われる大軍を援軍に差し向けていました。

 

窮地に陥る秀吉は、応援要請を願い出ると、それに真っ先に遣わされる事になったのが光秀のはずでした。

 

しかし、光秀は応援に来るところが謀反を起こし、主君信長を自害に追い込んでいたのです。

 

その報は、秀吉の元にも届くのでした…

 

中国大返しの経過

①打倒・明智光秀!

明智光秀謀反の知らせを聞いた秀吉は、毛利と戦う事よりも裏切り者光秀を討伐する事にします。

 

しかし、今は毛利との戦の最中、まずは迅速に毛利方と話を付ける必要があります。

 

秀吉は、備中高松城主の清水治勝の切腹・毛利の現在保有する地の安堵を約束すると速やかに毛利側との和睦を締結したのです。

 

自らの兵に対しても信長自害の事実に対し、箝口令(かんこうれい)をしいた秀吉は、知らせを聞いた翌日には、京に向かったと言う説があるくらいです。

 

高速移動!

実に備中高松城から山崎まで約200キロ程あると言われ、移動に掛かったのは、7日とも8日とも言われていますが、かなりのハイスピードで移動した事が分かります。

 

一日で20キロ以上の移動をしている事になる上、移動人数はその数2とも言われています。

 

現代のように電車網が発達している訳ではない当時お偉いさん達は、まだ馬が有りますが、兵卒達は自らの足だけが頼りですから相当過酷な移動を成し遂げた事になります。

 

ルートや出立日は、いくつか説があるものの、有力説として6日に出立してまず備中高松城から姫路城への80キロを移動しています。

 

これだけでもハードスケジュールですが、姫路城に何としても入りたかった理由としては、兵をゆっくり休むのに丁度良い事ことと、万一毛利が講話を破り追撃して来た場合に対応するためと考えられています。

 

9日には、姫路城から35キロ程離れた明石に到着し、織田方の諸将と合流しています。

 

10日には明石から兵庫、11日には兵庫から尼崎、12日には尼崎から富田、13日には富田から山崎へ到着し、この時には4万の軍勢へと膨れ上がっていました。

 

 

山崎の戦い

山崎に到着した秀吉は、事実上の総大将となると光秀と信長のとむらい合戦を繰り広げることになります。

 

光秀は、各地の諸公に味方するよう唱えるも、思いの他味方を得られず、それに対し秀吉側は、移動中に兵を増やして行き、到着時点で4万ともされる兵を確保しています。

 

光秀にとってこれだけ兵力に差が出たのは誤算でした。

 

その上、織田家中の諸公たちは、皆こぞって遠方に戦で赴いていてその一人である秀吉がまさかこんな短期間で帰還すると光秀は思わなかったようです。

 

戦は短期決戦だったとされ、明智軍も交戦するも兵の脱走や離脱が相次ぎ最後には、700程度の兵しかいませんでした。

 

光秀は、何とか本陣から逃げ延びた物の落武者狩にあい命を落としたとも言われています。

 

 

中国大返しの功労者

中国大返しの最大の功労者とも言われるのが、秀吉の右腕的存在の黒田官兵衛です。

 

(黒田官兵衛 出典:Wikipedia)

 

軍師として知られる彼は、信長死の知らせを聞き泣き崩れる秀吉に対し、冷静に天下取りのチャンスだと述べるような男です。

 

官兵衛は、早急に毛利方の安国寺恵瓊と会談を実施すると講話を手早くまとめ、講和後も毛利側には一部で豊臣方を追撃すべしとの意見が出るも、秀吉が天下人になる器だと認めさせ追撃の余地を与えませんでした。

 

官兵衛は、大軍が迅速に移動出来るように道沿いに炊き出し、渡し舟、替え馬を手配したほか、移動沿いに住んでいる武将達に光秀の味方にならないよう、信長は生きていると嘘の情報を流布させたのです。

 

幸いな事に信長の遺体は、見付かっておらず信長の首を持っていない光秀は世間に対し、信長を自害させたという確たる証拠を持っていませんでした。

 

⑤豊臣秀吉黒幕説

ですがこの中国大返し近年では、あまりにも出来過ぎていないかとも話題になっています。

 

そもそも本能寺の変自体光秀による見切り発車的な事件として扱われていますが、未だに事を起こした理由は分かっていません。

 

そもそも信長が出陣する事になったのは、秀吉からの応援要請があってこそで、備中高松城攻めに苦戦しているからとのことでした。

 

しかしながら、水攻めによって孤島と化していた備中高松城は、すでに秀吉方と和睦の意思を見せていたと言い、すでに信長がでてくる幕は必要なかったと言われています。

 

また、大軍を抱えここまで迅速に移動出来たのも異例とも言えますし、通説では毛利側に信長の死を知らせる密者が豊臣側に迷い混んだ偶然により知ったかのような話になっていますが、秀吉に発見されている時点で密者失格です。

 

こんな大事な時にそのようなへまをするのでしょうか?

 

しかもこの短期間で用意周到にし過ぎです。果たして真相は、如何に…

 

山崎の戦いのその後

 

最もこの戦の後成功を治めたのは、やはり豊臣秀吉その人です。

 

信長の死後、信長の地盤を継ぎ織田家の相続問題ではまだ幼い「三法師(織田秀信)」をつける事で実権を握ったのでした。

 

 (織田秀信 出典:Wikipedia)

 

当時の秀吉は、山崎の戦いで勝った立役者ですから誰も文句は言えなかったでしょう。

 

それに歯向かう柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで打ち負かし、小牧・長久手の戦いで織田信雄を鎮めると天下への道を登り始め、関白へと成り上がったのでした。

 

 

織田家は、信雄の家系が大名として残り、明智家は謀反人の汚名をきせられ一族もろとも自害しました。

 

ですが豊臣家も二代で滅び、その栄華が長続きする事はありませんでした。

 

 

まとめ

まとめ

 

✔ 中国大返しを起こしたのは、明智光秀が謀反を起こし主君織田信長が自害したから。

 

✔ 当時戦っていた毛利家と迅速に講和を結ぶと早急に山崎へ向かう。

 

✔ 約200キロの道程を約一週間で駆け抜けた。

 

✔ 未だに謎が多い本能寺の変は、黒幕は、豊臣秀吉なのか?

 

✔ 当初は、2万の軍勢が4万と化し山崎で明智光秀を迎え撃つ。

 

✔ 明智光秀は、最期落武者狩に合い落命する。

 

✔ 豊臣秀吉が地盤を継ぎ天下人となるも、二代で滅び最期は、徳川家康の天下へ!

 

関連キーワード