【南蛮貿易とは】簡単にわかりやすく解説!!輸入品&輸出品は?目的や影響など

 

戦国時代には沢山のヨーロッパの武器や道具が輸入されました。

 

それらの武器は当時戦国時代であった日本に多大な影響を及ぼします。

 

今回はそんな『南蛮貿易』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

南蛮貿易とは

(南蛮貿易 出典:Wikipedia

 

 

南蛮貿易とは、戦国時代に行われたヨーロッパと日本との間の貿易のことです。

 

南蛮というのは当時のヨーロッパ諸国全般のことを指しており、ヨーロッパの道具や武器が輸入されました。

 

なぜヨーロッパは日本と貿易しに来たのか?

 

 

南蛮貿易は日本からではなくポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国が大航海時代の時にはるばる行われていた貿易でした。

 

なんでヨーロッパ諸国がわざわざヨーロッパから遠く離れていた日本にやってきたのか?それはとある本がきっかけと言われています。

 

15世紀ごろ。イタリアのマルコ=ポーロという商人が元(中国)に滞在した時に東方見聞録(世界の記述)という本を書いて出版しました。

 

そこには日本のことを『黄金の国ジパング』と記しており日本に行くと黄金がザクザク取れるという風に書かれていました。

 

まぁ、日本には平泉に中尊寺という金ピカな寺があるためそのような形で日本のことを紹介したと思います。(ちなみに今の日本の英語表記であるJAPANはこのジパングが由来)

 

この東方見聞録を見たヨーロッパの人たちはこの日本のことに憧れを持つようになっていき、当時香辛料をヨーロッパに輸入する事と合わせてアジアへと貿易をし始めました。

 

南蛮貿易が行われていた場所

(長崎の出島 出典:Wikipedia)

 

 

南蛮貿易は日本各地どこでも行われていたものではありませんでした。

 

では南蛮貿易はどこで行われていたのかというと九州にある平戸と長崎が中心となっていました。

 

平戸というのは長崎県の一番北にあり、中国や朝鮮にも近くとても貿易に適していた土地です。

 

そのためポルトガルやスペインはこの地で貿易してその後はるばる祖国に帰って行きました。

 

南蛮貿易における輸出品と輸入品

(日本に来た南蛮人 出典:Wikipedia)

①南蛮貿易の輸入品

南蛮貿易の日本の輸入品は硝石が中心でした。

 

南蛮貿易が行われていた当時日本では戦国時代といってたくさんの戦国大名が入り乱れる群雄割拠の時代でした。

 

しかも、1543年に種子島で鉄砲が日本に伝わり爆発的に鉄砲の生産が盛んに行われ始まりました。

 

しかし、日本には肝心の鉄砲に必要である火薬の原料である硝石がありませんでした。そのため日本は硝石を大量に輸入して鉄砲を使用しようと思っていました。いかにも戦国時代らしい考えです。

 

そのほかの輸入品は生糸やその生糸を使った絹織物。

 

さらに中国で生産された陶磁器や砂糖、ヨーロッパのメガネなどのガラス製品、インドや東南アジアの香辛料、葡萄酒(ワイン)、オリーブ油、スペインがアメリカからヨーロッパへ運んだ銀などが輸入されました。

 

②南蛮貿易の輸出品

南蛮貿易の日本の輸出品は銀が中心でした。

 

日本には黄金はあまりありませんでしたが、代わりに銀は石見銀山というメキシコにあるポトシ銀山に並ぶ世界の三分の一の産出量を誇る銀山があったため、大量に輸出しても困ることはありませんでした。

 

例として1550年代まで石見銀山を治めていた大内氏はこの銀山を使って明との貿易を独占していました。

 

さらに南蛮貿易によって灰吹法というものが銀山に導入され銀の産出量がさらに増えました。

 

ほかの日本の輸出品は日本刀や日本で大量に産出量していた硫黄、さらには戦で捕虜となった人を奴隷としてヨーロッパに輸出していました。

 

しかし、これが天下人である豊臣秀吉の耳に入るとこのことを大激怒。バテレン追放令を出す原因となった一つとなりました。

 

 

南蛮貿易とキリスト教の関係

 

 

南蛮貿易とセットとして覚えて欲しいのがこの頃日本に入ってきたのがキリスト教です。

 

日本にキリスト教を伝えにきたイエズス会はポルトガル商人と協力関係を結び南蛮貿易のついでにキリスト教を布教しようと計画していました。

 

南蛮貿易をする商人と一緒に来日してきたキリスト教宣教師は九州の大名やその大名の領地の人たちに布教をし始め特に豊後国の戦国大名であった大友宗麟はキリスト教に入信し、その領内はキリスト教の教会が立っていたなどキリスト教を厚く信仰しました。

 

キリスト教の禁止と南蛮貿易の終焉

(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

①秀吉のバテレン追放令

ポルトガルやスペインなどは南蛮貿易によって莫大な利益を生み出します。

 

しかし、本能寺の変以降に豊臣秀吉が台頭してくるとキリスト教の立場がどんどん危うくなってきます。

 

この頃の日本におけるキリスト教信者の数は九州を中心に50万人を超えていたとされており、当時の日本の人口の5%を占めていました。

 

これが秀吉のキリスト教の警戒心を強め始め、さらに上に書いた通り日本人が奴隷としてヨーロッパに売られていると聞くと秀吉は激怒。1585年にキリスト教を禁止してキリスト教宣教師を処刑し始めました。

 

しかし、秀吉は南蛮貿易が日本の利益にもなっていたため全面的に禁止することはしませんでした。

 

秀吉からすると「貿易をすることは一向に構わないが、キリスト教は絶対に布教するな!!!」ということだったのでしょう。

 

②江戸幕府による鎖国

時代が降り江戸時代に入るとキリスト教の警戒心はどんどん強まってきてしまい1615年には禁教令を発布。日本におけるキリスト教の布教を全面禁止しました。

 

 

さらにこの頃になるとオランダやイギリスなどの同じキリスト教だけど布教にあまり力を注いでいないプロテスタントを信仰している国が日本との貿易をし始め、別にスペインやポルトガルなどの国と貿易する必要性はなくなっていました。

 

そして遂に島原の乱でキリスト教の恐ろしさを知ると、1634年に幕府は日本にいたポルトガル人を全員マカオに追放。

 

 

さらにオランダ商人も長崎に作られた人工島である出島に押し込め、日本は鎖国体制に突入していきました。こうして南蛮貿易は終わりを迎えました。

 

 

まとめ

・南蛮貿易は日本とスペインやポルトガルなどのヨーロッパとの間で行われていた貿易のこと。

・ヨーロッパ側の主な輸出品は硝石、日本の方は銀を主に輸出品としていた。

・1585年にバテレン追放令が発令され、さらに1634年にポルトガル人をマカオに追放して南蛮貿易は終わりを迎え、日本は鎖国体制に突入した。