【寛永の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後の対策など

 

「寛永の大飢饉」といえば江戸期に起こった飢饉のうちの1つとして思い浮かぶ人は多いと思われます。

 

ではその飢饉はどんなものだったかと聞かれると中々細かくは説明できないかもしれません。

 

そこで、今回はこの「寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)」について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

寛永の大飢饉とは?

 

寛永の大飢饉とは、江戸時代初期の1642年(寛永19年)~1643年(寛永20年)に起きた飢饉のことです。

 

飢饉とは天候不順や異常気象、虫害などの自然災害や社会的影響などで食糧不足に陥り、人々が飢え苦しむ現象のこと。

 

寛永の大飢饉は、江戸初期の飢饉の中でも最大のものだったと言われており、全国でおおよそ5~10万人が餓死したと言われています。

 

また、江戸初期に幕府の政治は【武断政治】から【文治政治】へ方針転換しますが、この転換にも大きな影響を与えたとされています。

 

寛永の大飢饉の原因

 

 

江戸初期最大の飢饉とされる「寛永の大飢饉」ですが、その原因も一つではありませんでした。

 

いろんな要因が重なり合った結果とされていますが、その要因についてみていきましょう。

 

社会的困窮

江戸初期は幕府による幕藩体制の確立過程の中、支配体制に力技で組み敷かれていく武士は勿論ですが、その武士により支配される農民達にも多くの負担が課せられました。

 

農民たちの多くは疲弊した状態になっていたのです。

 

そのような中、1937に国内最大の内乱である島原の乱が起きます。

 

 

これはキリシタンによる一揆として宗教的な要素が有名ではありますが、実は過酷な取り立てを行う領主への農民たちの不満が起こした反乱としての側面も大きかったのです。

 

さらにこの乱の鎮圧のために各地の農民が駆り出されたことで、農民たちの苦しみはより強まります。

 

労働力の低下

1938年(寛永15年)九州で牛疫(ぎゅうえき)というウイルス性の牛の病気が発生し、西日本を中心に流行してしまいます。

 

伝染力が強くまた致死率も80%を超えるこの病を発病した牛は5~6日で高熱と酷い下痢等で死亡したとされます。

 

貴重な農耕のための労働力を担っていた牛が減少し、農作業への影響が出てきてしまうのです。

 

ちなみに、この家畜法定伝染病は、日本では明治期を最後に現在は発生していません。

 

小氷期と江戸期の気候

近年各地で猛暑や洪水など異常気象からの自然災害が起こり、私達も他人ごとではない状態ですね。

 

人の排出するCO2などによる地球温暖化の問題などは以前からも言われていますが、そのような人為的要素以外にも、実は地球規模で気候は周期的に変動しているそうです。

 

地球は氷河が発達するほど全体的に寒冷化する『氷期』とその間の温暖な『間氷期』とを繰り返しています。

 

この温暖な気候の間にいろんな命が芽吹きますが、この『間氷期』の中でも、太陽活動の低下などにより寒冷化する時期があり、これを『小氷期』というそうです。

 

実は江戸期はこの時期にあたり、全体的に寒冷な気候だったということです。

 

当時はヒーターなどもない時代ですし、寒さを凌ぐのは非常に大変だったと思われますが、寒冷な気候が農作物にどのような影響を与えるかは想像に容易いですね。

 

火山の噴火と東北の凶作

1640(寛永17)6月には北海道の蝦夷駒ケ岳が噴火しました。

 

火山噴火による降灰は農作物の発育不良や品質不良、さらには土壌汚染までおこし以後の農作物生育にも悪影響を与えました。

 

その結果東北地方を中心に大凶作になったのです。

 

全国規模の自然災害

1641年には夏に西日本で日照りによる干ばつに見舞われますが、反して秋には大雨となった上、東日本では長雨と冷風の影響で冷害もおこります。

 

さらにイナゴなどと推測されるような虫害もあり、これらの全国的な自然災害は翌年にまで続く農作物の不作を招き、この不作が大きな飢饉へと繋がっていったのです。

 

寛永の大飢饉の状況

農民の逃亡

不作に苦しむ農民の多くは田畑を捨て、逃亡していきました。

 

それがさらに田畑の荒廃を招き、農作物を育てることのできない荒れ地が広がるという悪循環になっていったのです。

 

しかし一生懸命育てた米が天候不順や災害で収穫できず、それでも年貢の取り立てが行われてしまえば、そりゃ逃げるしかないな~というのは非常に分かりますね。

 

大規模リストラ

農民が逃げて年貢が入らないと困るのは武士も同じです。

 

幕府は勿論各藩の財政は年貢米が入らないことで非常に苦しくなっていきます。

 

財政が苦しいということは、経費を抑える必要があるということ、つまり人件費の節約も検討されてしまいます。

 

各藩で大規模なリストラも行われ、各地に牢人が増えていきました。

 

また、この時期財政困窮以外にも幕府による【武断政治】のためにお家取り潰しなどが数多くあり、仕える藩がなくなった為に必然的に牢人となってしまう武士も多くいたのです。

 

 

地獄絵図

食べるものが無く飢えに苦しむ様はいろんな書物に残っているようですが、飢餓状態であるということは人でなくなる状態なのかというくらいに悲惨な内容もあります。

 

貧しいゆえの身売りなどは普通に行われ、飢餓から逃れる手段の一つともなっていたようです。

 

東北の村などでは逃亡の際に足手まといになるということで、未就学児くらいの子を川に溺死させたりしたそうです。

 

また京都でも屍が路上に積み上げられ、軒下には赤子が捨てられ、餓死した子供などは犬に食べられていた…等の記録もあるようです。

 

現実かと疑うくらいに恐ろしい、まさに地獄絵図のようだったのです。

 

現在の飽食時代からは考えも及ばないでしょうが、過去の日本では頻繁に起こったことだったのです。今目の前の食事を大切にしていきたいものですね。

 

寛永の大飢饉への対応

(徳川家光 出典:Wikipedia)

幕府の対策

飢餓の影響が明らかになると、時の将軍徳川家光は諸大名に対して、領国の飢餓対策を指示します。

 

この時譜代大名も領国に戻ったので、以後譜代大名も参勤交代をするようになったそうです。

 

餓死者も増加し、逃亡者が都会に集中してくるようになると、身元が分かるものに関しては諸藩へ引き渡していきました。

 

さらに、一人1日5合を基本として支給していた玄米などの扶持米(ふちまい)を米不足への対処のために各大名から江戸に集めたりしました。

 

領民への直接指示

幕府は大名への指示以外にも、領民たちへの直接の命令を下します。

 

倹約令は勿論のこと、身売りの禁止や、米作りへ専念してもらうために米以外(タバコなど)の栽培禁止、雑穀を使用する食品の製造販売の禁止や災害被害にあった人々を助ける救済小屋の設置など、様々な具体的な策を出していったのです。

 

1643には田畑永代売買禁止令を発布し、農民の農地離れを何とか食い止めようともしました。

 

 

寛永の大飢饉の影響

政治の方針転換

先の島原の乱、この大飢饉、さらに将軍の代替わりに起こった由井正雪の乱などを通して、幕府は武力や厳しい刑罰などで治めていく【武断政治】の限界を感じます。

 

 

その結果、4代家綱の時代から礼節を重んじて制度で治めていく【文治政治】へと政治の方針を転換していくのです。

 

 

②百姓成立(ひゃくしょうなりたち)

幕府政治の財政の基本が年貢米であることから、その担い手である農民(百姓)を大切に育てることが必要だとし、「百姓撫育(百姓成立)」という考えで幕府は百姓を戦乱や飢餓のない安定した生活ができる状態にしていこうとしました。

 

それにより幕政の安定と庶民の生活の向上が推し進められていくようになるのでした。

 

まとめ

 寛永の大飢饉は、1642年~1643年に起こった大飢饉のこと。

 飢饉のきっかけの1つして西日本で流行した『牛疫』による牛の大量死がある。

 蝦夷駒ケ岳の噴火による降灰は東北地方の凶作をまねいた。

 西日本の干ばつ、東日本の冷害などの自然災害で全国的な不作が起こり、飢饉が全国的なものになっていった。

 飢饉の影響で農民の逃亡や牢人の増加など社会不安も大きくなっていった。

 幕府も倹約など様々な対策を行い、各藩にも領国内の飢饉対策に取り組むように指示を出した。

 飢饉後、幕府の政治は「武断政治」から「文治政治」に代わり、農民を耕作に専念してもらうようにするためにも「百姓成立」という方策がとられていった。