日本に暮らしていて、一度も城に出くわしたことがないという人は少ないのではないでしょうか。

 

どこの都道府県にもある城ですが、以前はもっとたくさんありました。

 

様々な理由で廃城になったのですが、それは1615年にある法律ができたからだったのです。

 

それが、一国一城令です。

 

今回のこの1615年にだされた『一国一城令』についてわかりやすく解説していきます。

 

一国一城令とは

 

 

一国一城令とは、1615年(慶長20年に諸大名に対して命じられた、一つの国(藩)に対して城は一つ(大名の居城)のみと定めた法令です。

 

元和の一国一城令とも呼ばれています。

 

一国一城令の目的・背景

 

 

大阪夏の陣・冬の陣を経て、徳川家は1615年5月に大阪城を落とし、豊臣家を滅ぼすことに成功しました。

 

 

これにより全国統治を盤石なものに近付けましたが、徳川家はこれではまだ不十分だと考えていました。

 

特に関ヶ原を機に臣従した外様大名が反逆する可能性があると考え、諸大名の戦力を削ろうとしました。

 

そこで発令されたのが一国一城令です。

 

これは一国に対して認められるのは一城のみ、その他の城を廃城にすることを要求した法律です。

 

一国一城令の内容

①一国一城令の発令

1615年6月、徳川幕府から一国一城令が交付されました。

 

安藤重信、酒井忠世、土井利勝が連判し、第二代征夷大将軍徳川秀忠によって発令されたものですが、立案したのは初代征夷大将軍徳川家康でした。

 

当時将軍は代替わりしていたものの、家康は駿府(現在の静岡県のあたり)に大御所として存在し、依然として実権を握っていました。

 

ここでの一国とは大名の領国、また令制国(いわゆる旧国名と呼ばれる、土佐や薩摩といったもの)という意味合いで使われています。

 

これにより各国では、大名が住む居城以外の城を廃城しなければなりませんでした。

 

②武家諸法度

同じく1615年の7月に交付された武家諸法度により、新たな城の築城はもちろんのこと、増築・改築が禁じられ、修復の際も幕府に届け出る必要が生じました。

 

武家諸法度とは大名が守る必要のある法律であり、これに違反すると厳罰(領地没収・左遷)に処されます。

 

幕府も各藩の城の状況を探るため、秘密裏にスパイ(隠密)を送ったり、正式に視察団(諸国巡見使)を派遣していました。

 

そのため幕府に目をつけられないよう、自然災害等で城が壊れた際に放置するという大名もいました。

 

 

③有効範囲

この一国一城令は大名に対しての法律なので、幕府は対象範囲外です。

 

そのため、江戸城や大阪城に対しては改修工事が行われていました。

 

また領地替えで城のない領地になった場合などは、新しい城を築くことが許されました。

 

一国一城令の例外

 

一国あたり一城という決まりですが、いくつか例外があります。

 

現代の法律のように厳密に定められたものではなく、幕府のさじ加減次第なところがあるので幕府が信頼している、または有力大名に対しては甘く外様大名に対しては厳しくといった面がありました。

 

以下に主な例外を挙げます。

 

①一国が複数大名により統治されていたパターン

伊予(現在の愛媛県のあたり)は複数大名によって統治されていたため、藤堂家の今治城・加藤家の松山城・伊達家の宇和島城・脇坂家の大洲城といった形で、複数の城を残すことが許されました。

 

②一大名が複数国を統治していたパターン

津藩は伊勢と伊賀という、2つの国(現在の三重県のあたり)を統治していました。

 

そのため津藩は、伊勢城と伊賀上野城を所持することができました。

 

③城ではないと言い張るパターン

城ではなく、砦や要害と称することで、一国一城の規定違反にはならないという理屈です。

 

この理屈により仙台藩は多くの城ではない城(要害など)を保持することができました。

 

このような策が認められた背景として仙台藩を治める伊達家の格を考慮したとされる説、その当時東北地方は一揆が頻繁に起こっていたため、政治上黙認せざるを得なかったという説など、様々な説があります。

 

④幕府が複数城を残すことを認めたパターン

鳥取藩では因幡・伯耆の二国に対して、鳥取城・米子城・倉吉城の三つの城を持つことが許されました。

 

これは領主の池田家が将軍の親戚筋であることから信頼できる家であったこと、また近隣の毛利家に対する牽制とする意味合いがあったようです。

 

⑤幕府に遠慮したパターン

毛利家が治める萩藩は周防と長門という二国を所持していたにも関わらず、萩城のみを残して他の城を廃城しました。

 

なるほど幕府から圧力がかかったのかと邪推したくなるところですが、実際はそうではなかったようで毛利側が自主的に廃城処理を行い、幕府に報告したと言われています。

 

幕府からは「二国を治めているんだから、岩国城まで廃城にすることはなかったんじゃないの?」とのコメントがあったそうですが、幕府に対して敵意がないことを示すために毛利は進んで廃城を選んだようです。

 

このように当時の幕府は絶対的な存在。

 

しかもまだ家康が絶賛強権発動中という状態ですから、少しでも疑われるような行動は避けたかったんですね。

 

一国一城令の結果・影響

 

 

一国一城令実施前には全国に3000以上の城がありましたが、その9割以上が廃城となり、約170程度まで激減しました。

 

しかし、この一国一城令によって大名は戦力を削られることになる訳ですが、メリットもありました。

 

一国一城という決まりになったため、家臣は城を持つことができなくなりました。

 

それにより城を持つ大名、持たざる家臣との位の差が際立つようになり、大名による統治が行いやすくなったというメリットがあったんです。

 

このように、城は軍事上・政治上大変重要な役割を担っており、それを多く保持するということは強大な戦力を保持するということに繋がります。

 

この幕府の政策により城が激減、戦が行われることも激減し、泰平の世が築かれることとなったのです。

 

一国一城令を違反した場合

 

 

ちょっと気になる疑問として、この一国一城令、違反したらどうなるのでしょうか?

 

その身を以て答えを教えてくれた、つまり実際に一国一城令(厳密には武家諸法度)に引っかかって改易(平民落ち・領地没収)を食らった大名がいます。

 

賤ヶ岳の戦いで一番槍として活躍し、賤ヶ岳の七本槍としても知られる福島正則です。

 

(福島 正則 出典:Wikipedia

 

 

彼はその当時、広島城を居城としていたのですが、その広島の町を台風が襲いました。

 

現代の建築技術を持ってしても台風は大変に驚異的な災害であり、江戸の頃は今以上に大きく被害を受けるであろうというのは、想像に難くないでしょう。

 

当然のごとく広島城も被害を受けます。

 

なるべく早く修理したいところですが、修理の際には幕府に報告する義務があります。

 

そこできちんと幕府に届け出るのですが、なかなか許可がおりません。諸説ありますが、正則に前科があったことが許可が出なかった理由だとされています。

 

正則は以前、隣国であった毛利家への牽制として亀居城を築城したのですが、幕府からの圧力もあり1611年に廃城しています。

 

一国一城令が発令されたのは1615年なのでセーフにも感じられますが、正則は幕府から勝手なことを仕出かす要注意人物と見られていたようですね。

 

そんなこんなで修理の許可は出ない、雨漏りもするし不便だ……、「よし、フライングして直してしまおう!まあ、事後報告で大丈夫だろう。」と思い立ち、勝手に修理を始めてしまいました。

 

これに怒った徳川秀忠は土井利勝(一国一城令のときに連判した人ですね)の制止を振り切って、正則を改易してしましました。

 

まとめ

・一国に対して、城は大名の居城一つのみと定められた法律。

・主に西国の外様大名の戦力を削る目的で実施された。

・新たに築城することはもちろん、改修も制限された。

・違反すると改易など、大変なことになった。

・一方で幕府のさじ加減次第なところもあり、例外も多く存在した。




コメントを残す

CAPTCHA


関連キーワード