【明智牧の生涯とは】明智光秀の母親を徹底解説!!人物像や彼女の人生を振り返ります!

 

2020NHK大河ドラマの「麒麟がくる」は大河ドラマ第59作品目になります。

 

大河ドラマ「麒麟がくる」は、若かりし頃の明智光秀を中心とした光秀の前半生が描かれる大河ドラマですので、その母親である明智牧(あけちまき)の存在はなくしてはなりません。

 

明智光秀は有名ですが、織田信長に召し抱えられるまでの前半生や本能寺の変を何故起こしたのか?など明智一族は、現在でも謎とされていることが多く、魅力的な人物でもあります。

 

では、明智牧はどのような人物だったのでしょうか?

 

今回はその人物像や逸話、明智光秀との関係にも触れながら、明智牧についてわかりやすく解説していきます。

 

明智牧の生涯

 

では、明智牧はどのような生涯を送ったのでしょうか?

 

冒頭でもお話した通り、明智牧については詳細な史料が残っていません。それは、明智光秀が逆賊とされていたからです。

 

現在、判明している範囲での明智牧の生涯をご紹介しましょう。

 

明智牧の生涯年表

 

  • 生没年不詳
  • 1528年 明智光秀を生む(1516年ともいわれている)
  • 1579年 八上城へ人質として送られ、殺される

 

明智牧といわれていますが、それは明智光秀の母の名前が「お牧の方」だという説が大元になっています。そのため、当時の正式な名前ではありません。

 

また、明智光秀自身の出身も未だに謎なこともあり、明智光秀の母である牧の出身も詳しくはわかっていません。

 

一説では、若挟武田氏の出身といわれています。

 

このように謎だらけの明智牧の人生にはいったい何があったのでしょうか。詳しくひも解いていきましょう。

 

明智牧の人物像と壮絶な人生

 

明智牧は、若狭武田氏出身で夫は美濃源氏の武士・明智光綱といわれています。

 

この二人からあの明智光秀が生まれました。

 

 (明智光秀 出典:Wikipedia)

 

牧は夫の光綱を早くに亡くし、明智家も長良川の戦いで滅んでしまいます。

 

しかし、光秀が織田信長に仕えたことで出世もし、一時は安心もしましたことでしょう。

 

しかし、その後人質として送られ、殺されたということは人生の最期は壮絶だったといえるでしょう。

 

伝わる非業な最期

明智牧の生涯は謎に包まれている中で、「最期」のお話は有名です。

 

1579年に波多野3兄弟が守る八上城を兵糧攻めしていた光秀は、中々落ちてくれない八上城に苦戦を強いられていました。

 

籠城を続ける八上城を開城させるために、光秀は和平を結ぶために波多野一族の命の保証と領土の保証をし、その証として自分の母を人質に向かわせたといいます。

 

そして、波多野3兄弟は降伏したものの、安土城へ送られたさいに織田信長が波多野3兄弟を磔(はりつけ)にしてしまいます。

 

その事実を知った八上城の家臣たちは激怒し、人質だった光秀の母を同じように磔にしてしまったといいます。

 

「一度は和平を結ぶことができた」と安堵したはずの牧にとっても光秀にとってもどれだけ落胆したことでしょうか。思いを推し測ることは到底できません。

 

謎とされている本能寺の変の引き金は母?

光秀が本能寺の変を引き起こした理由には・・・

  • 徳川家康の接待役を織田信長から仰せつかったものの、その接待後に信長から罵られただ
  • 常日頃からパワーハラスメントにあっていた

    などの説があり、まだまだ謎に包まれています。

     

    そして、今回ご紹介した牧の非業な最期も関係しているのではないかという一説もあります。

     

    それは、壮絶な母の死の原因は紛れもない織田信長です。

     

    (織田信長 出典:Wikipedia)

     

    光秀と波多野3兄弟との和平の話はすでについており、織田信長さえ約束を反故にしなければ、母は無事に帰ってきたことでしょう。

     

    光秀が悔しい思いをし、相当無念であったに違いありません。

     

    また、父を早くに亡くしている光秀は母の牧をとても大切に慕っていたことでしょう。

     

    ですから、その3年後の命日に本能寺の変を起こしたともいわれています。

     

    明智牧の夫「明智光綱」とはどんな人だった?

    明智牧の夫とされる「明智光綱」1497年に生まれ、父の明智光継と共に斎藤道三に仕えていました。

     

    光継が隠居すると美濃明智城に入り明智家の家督を継ぎました。

     

    光綱の妹には「小見の方(おみのかた)」がいて、斎藤道三に嫁ぎました。

     

    Saito-Dozan-2.jpg

    (斎藤道三 出典:Wikipedia)

     

    そして、織田信長の妻になる「帰蝶(濃姫)」という娘を生んでいます。

     

     

    1535年土岐氏の覇権争いが勃発し、その最中明智城を攻められ光綱は討ち死にしたといわれています。ですから、享年38歳と光継よりも先に亡くなっています。

     

    息子の光秀はこのときまだ幼かったため、光綱の弟(光秀の叔父)の明智光安が家督を相続しました。

     

     

    また、光綱という名の他にも明智光綱には「光隆」や「光国」だったという説もあります。

     

    大河ドラマ「麒麟がくる」で明智牧は誰が演じるのか?

    大河ドラマ「麒麟がくる」で明智牧を演じるのは、女優の石川さゆりさんです。

     

     

    石川さゆりさんは、1958130日生まれの演歌歌手です。石川さゆりさんといえば、「津軽海峡・冬景色」や「天城越え」を外すことはできず、NHKの紅白歌合戦も大御所です。

     

    一方で女優業もされており、NHK大河ドラマでは2006年の「功名が辻」でせつ役を演じられました。

     

    せつは京都天竺屋の侍女役でしたが、今回は「光秀の母役」ですから、たくさん登場することが期待できます。

     

    また、オフィシャルウェブサイトの「さゆり日記」も興味深いですね。更新頻度は少な目ですが、「大河ドラマのロケ~」などリアルタイムの石川さゆりさんを知ることができます。

     

    石川さゆりさんが好きな方は是非読んだ方がよいでしょう。

     

    今まで大河ドラマで明智光秀の母役を演じたことがあるのは、野際陽子さんです。最後の礎となったシーンは今でも思い出す人がいるという名シーンになっています。

     

    今回の大河ドラマ「麒麟がくる」では、礎になるシーンがあるかはわかりませんが、十分に期待はできるでしょう。石川さゆりさんの名演技に期待です。

     

     

    まとめ

    まとめ

     

     明智牧は、明智光秀の母親とされている。

     

     出身は、若狭武田氏の出身だったかもしれない。

     

     夫は明智光綱である。

     

     1528年(もしくは1516年)に明智光秀を出産する。

     

     長良川の戦いで明智家が滅ぶ。

     

     息子の光秀が織田信長の家臣になり出世する。

     

     八上城の籠城戦に苦戦を強いられていた光秀は、母の明智牧を人質として送り、波多野3兄弟に和平を持ちかける。

     

     和平が成立しかけたものの信長が約束を反故したため、牧は磔となって死亡する。