1868年に戊辰戦争に勝利した新政府は近代国家を日本に作り出そうとしていました。

 

しかし、何をするにもお金がありません。というのも、当時の税は米で納められていて(年貢)政府は年貢米を売ることで現金を得ていました。

 

米の価格が安かったり、米がとれなかったりすると現金として得られる税金が減ってしまいます。

 

そこで考え付いたのが、米ではなく最初から現金で税金を取る方法でした。

 

今回は新政府がなぜ現金にこだわったのか、地租改正そのものがどういった内容だったのか、地租改正の目的や内容・結果について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

地租改正とは?

 

 

地租改正とは、1873年(明治6年)に制定された地租改正条例によって実施された土地制度・課税制度のことです。

 

この制度によって土地の所有者をはっきりさせ、その人たちからを取る仕組みを完成させました。

 

地租改正の目的は貨幣(現金)で税を集めることで安定した収入を確保するために行なわれ、政府が全国で同じ基準で実施しました。

 

次からはどうして政府は現金にこだわったのかについて、詳しく解説していきます。

 

地租改正が行われた背景

①現物納だと不便!米やその他の作物を年貢としてもらっても困るんだよねぇ…

江戸時代まで、農民たちは米などの農作物を年貢として領主におさめていました。

 

農作物などで税を納めることを現物納といいます。

 

この現物納で行なうと以下の2つの不便さが目立ちました。

 農作物の取れ高によって税収がかわってしまう

たくさん取れれば価格が下がる豊作貧乏、取れなければ凶作で年貢激減。この状態だと、現金化するまで予算を組むことができません。

 

 農作物の管理が面倒

米にしてもその他の農作物にしても保管するのに手間がかかります。

 

②不公平な課税。江戸時代、都市の人々は税が軽い?

江戸時代の税は農地と農民にかけられていました。

 

そのため、農作物を生み出さない都市は無税だったのです。

 

職人や商人などの町人は決められたわずかな税を納めるだけで、農民よりもはるかに税負担が軽かったのです。

 

③貿易では現金(特に金や銀)が必要!

外国との貿易では当時の世界共通の通貨である金貨や銀貨が必要でした。

 

米や農作物では貿易の支払いはできなかったからです。

 

地租改正の内容

(1879年(明治12年)に発行された地券 出典:Wikipedia

①地券の発行

地券とは、土地所有権と地租負担の義務を表示した証明書でした。

 

地券に書かれた内容は・・・

①所有者名

②所在地名

③面積

④地価

⑤地租

などでした。

 

この地券によって、江戸時代から続く領主の権利などが否定され、また今まで課税されてこなかった市街地でも地券を発行し、課税の準備が整えられました。

 

②地租改正条例の公布

政府は地券を発行して土地所有者をはっきりさせたうえで、より具体的な改革を行いました。

 

それが地租改正条例です。この地租改正条例の内容は次の3つです。

 

地租改正条例の内容

課税の基準を地価とする

地租を地価の3%にし、現金で納めさせる

税を納めるのは地券を持っている人と決める

 

上記に示したように農地の地価は田畑面積や収穫高、平均の米価格などから決められました。

 

地租改正の結果

①政府にとっての地租改正

全国一律の基準で、しかも現金で税を徴収することができるようになったので財政が安定しました。

 

そのおかげで予算を組みやすくなりました。

 

②地主にとっての地租改正

地主は米価格が上がれば、地租を支払っても十分に儲けが出ます。

 

米価が上がれば上がるほど地主は得をしました

 

一方、米価が暴落した時は大きなダメージを受けますが、普段からのたくわえがあれば乗り切ることはできました。

 

③自作農にとっての地租改正

自作農とは自分の土地を持っている農民という意味です。

 

自作農も米価が上がればもうかることは同じでした。

 

しかし、地主とは異なり米価暴落に備えた貯金が少ないため、米価が暴落すると米を売っても地租を納められないという状況が発生しました。

 

地租を払えなくなった自作農たちは土地を売り払い、地主のもとで小作人になるか、都市に出て働くしかなくなります

 

④苦しい小作人

小作人は地主から土地を借りている農民です。

 

小作人たちは地主に江戸時代と同じく米で小作料を納めます。小作料は高めに設定されていたので常に生活苦でした。

 

大正時代には高すぎる小作料をめぐって小作争議が発生します。

 

地租改正の影響

①地租改正直後の政府の収入

地租改正が完成した1880年の政府予算を見ると、4分の3が地租でした。

 

収入の大半が現金で得られるようになり、様々な政策を進めやすくなりました。

 

産業が成長すると地租の割合は低くなりましたが、明治時代の政府にとって重要な財源であることに変わりはありませんでした。

 

②地租改正反対一揆

(1876年 地租改正反対一揆。伊勢暴動の様子 出典:Wikipedia

 

 

明治初期には社会の大きな変化に対して反対する農民の一揆がたくさん置きました。

 

学生で子供たちを農作業に使うことができなくなった農民が起こした学制反対一揆、徴兵令に反対して起こされた血税一揆、そして、地租改正に反対した地租改正反対一揆です。

 

地租改正で改正前より負担が大きくなった農民たち(特に、米価が安いときは負担が増える)は茨城・三重・愛知・岐阜・大阪などで大規模な一揆をおこしました。

 

これに対して政府は地租を3%から2.5%に下げることで農民たちの怒りを鎮めようとしました。

 

③寄生地主制のきっかけ

明治以後、凶作や地租を支払えなくなる状況が発生するたびに財力のある地主たちは土地を買い集めていきました。

 

こうして、地方ではたくさんの土地を集め、自らは農業をせずに小作人から受け取る小作料だけで経営が成り立つ寄生地主制がみられるようになりました。

 

戦後の農地改革まで寄生地主制は続きます。

 

まとめ

 地租改正とは、1873年(明治6年)に制定された地租改正条例によって実施された土地制度・課税制度のこと。

 地租改正の目的は土地所有者から現金で税を徴収すること。

 地券とは土地の所有と納税義務をあらわす証明書のこと。

 地租改正のポイントは「課税基準が地価であること」「地租は地価の3%として、現金で納めること」「納税義務は地券所有者にあること」の3つ。

 地租改正のおかげで政府の財源は安定した。

 自作農が地租を払えない場合は土地を売って小作人になるか都市労働者になった。

 地租の負担が重いとして農民たちは地租改正反対一揆をおこした。

 一揆の結果、地租は3%から2.5%に減らされた。




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