身分制度が徹底していた江戸時代に、それを支えていた制度がありました。

 

石高制と言われる年貢や賦役を決める制度です。

 

今回は、そんな『石高制(こくだかせい)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

石高制とは?

 

 

石高制とは豊臣秀吉時代に始まった、土地の米収穫量に基づいた石高を基準に「農民に対して年貢量を定める」&「大名に対しては軍役などを定める」制度のことです。

 

この秀吉の時代には、石高制が実施される地域とされない地域がありました。

 

しかし、江戸時代に入ると石高制が全国に徹底され、土地制度の原則となります。そして石高制によって兵農分離が進められることにより身分制度が敷かれました。

 

つまり、石高制は江戸時代の幕藩体制村請制など、身分秩序を保つ基準ともなったのです。

 

そんな石高制も明治になると地租改正廃藩置県の導入により廃止されてしまいます。

 

石高制のはじまり

 

 

石高制が始まった時代背景は、どのようなものだったのでしょうか。

 

①貫高制の存在

石高制が採用される以前には、貫高制(かんだかせい)と言われる土地制度がありました。

 

鎌倉・室町時代の貫高制は、土地の収穫量を通貨単位である「貫(かん)」で換算。

 

これを貫高と呼び、貫高を税を納めさせる基準としました。また、武家の知行高も貫高で表して、負担する軍役を決めました。

 

戦国時代になるとこの貫高制は全国に本格的に普及します。

 

この時代の貫高制は年貢を銭で納めることもありました。戦国時代には自給自足制度が崩壊し、支配階層が貨幣を必要としていたこともあり、全国に広く普及したのです。

 

 

②豊臣時代の太閤検地

豊臣秀吉の時代になると、太閤検地が行われます。

 

 

太閤検地とは、簡単に言えば全国の田畑の測量と収穫量の調査のこと。この調査により石高で計算されたため、日本全国で土地に用いる単位が統一されることになりました。

 

CHECK

この時期は朝鮮出兵があり、それに備えて軍隊の食糧や軍役の確保ということが優先的に考えられ、そのために太閤検地が行われました。それに伴い、各地の大名の領知高を確認するという目的もありました。

つまり、大名たちがどれだけの勢力を持っているかを、太閤である秀吉が把握する必要があったのです。

 

③江戸時代の兵農分離

江戸幕府は、1605年に改めて全国の石高の再確認を行います。(※この時提出された石高は幕末まで変わることがありませんでした)

 

この石高制により幕府は大名の所領規模を簡単に把握することができるようになり、大名に課する負担や幕府役職の免除も、石高に応じるものになりました。

 

また、江戸時代の徹底した身分制度も石高制を基にしています。

 

幕府は城下町政策により、武士を町に住まわせることで、兵農分離を進めました。

 

しかし、石高制による税負担は、農民以外の武士や町人である職人と商人たちなどにも影響を与えました。農民以外にも石高に代わる役負担を与えられたのです。

 

こうした負担体系の違いは、江戸時代の武士・農民・町人の区別をしっかりとつけることになりました。

 

石高制のしくみと特徴

 

 

それでは、石高制とはどのようなしくみだったのでしょうか。

 

①石高の意味と計算方法

石高制を取り入れると、田畑や屋敷地などの生産高を米の量で計りました。これを「石高」と言いました。

 

畑は屋敷では米を作らないのですが、米を作ったと過程して、すべての土地に対して石高を設定したのです。

 

この石高を計算する方式は、石盛×面積。

 

石盛(こくもり)とは、田畑や屋敷地を上・中・下・下々などの等級に分け、上田は1石5斗、中田は1石3斗、屋敷地は1石1斗などと基準を定めることです。

 

②江戸時代の再調査「表高と内高」

江戸時代の1605年に行われた石高の再調査で、幕府に提出された石高の記録が表高(おもてだか)と言われるものです。

 

表高は幕末になるまで、原則として変化することはありませんでした。

 

ただ、この表高は実際に土地の生産量を表すより、大名家の支配力や勢力、家格を表すだけの数字に過ぎなかったというのが現実です。

 

一方、表高に対して、実際の年貢を課すための基準となった石高のことを内高と言います。

 

新田開発や検地の徹底により、幕府に提出した表高とは違う数字になっていきました。つまり、表高は表向きのもので、実質的な石高が内高と言えます。

 

 

この内高の算出により、村高(一つの村における石高)水準でしか出なかった石高が、個々の土地にも通用することになりました。

 

③幕藩体制の基礎の確立

石高制の導入により、各大名の所領する土地の規模が簡単に把握できるようになりました。

 

そのため、幕府から大名に対して、土地を与えたり、減らしたり、交換したりなどということも容易にできるようになりました。

 

これは、幕府と大名の主従関係である幕藩体制を安定させることにつながりました。

 

また、農村においても石高の多い少ないで上下関係を決めることにも役立ちました。

 

つまり、石高制は江戸幕府の上下関係、身分関係を支える役目をしたのです。

 

石高制の意義

 

 

石高制には幕藩体制を支えるという役割がありました。

 

その他にどのような意義があったのでしょうか。

 

貨幣経済の形成を促進した

江戸時代に貨幣経済が発達しますが、まだ全国的に貨幣が統一されていたとは言えませんでした。

 

そこで、石高制により米の価値が全国的に統一されていたため、商人間の取引でも米が基準となる通貨のような役割を果たしていました。

 

大阪に設置された、米を取引する堂島米会所(こめかいじょ)は、米を媒介とする金銀銅の交換比率を決める為替市場という役割もありました。

 

つまり、石高制により米の生産量が明確になり、年貢米を貨幣に換える全国的な市場の形成を促したと言えます。

 

石高制の廃止

①石高制の不安定さ&三貨制度

石高制は、16世紀の頃の貨幣価値が不安定だったころには有効でしたが、18世紀に入ると米の生産量が増えて米価が不安定になると武士や民衆の生活を圧迫し始めました。

 

この頃に活躍したのが三貨制度。

 

三貨制度とは、金・銀・銭という三つの貨幣が基本通貨として使わた制度のこと。この制度により貨幣価値が安定しました。

 

このように米を基準とする石高制が弱点となってきたのです。

 

幕府は米価を安定させるために様々な方策を取りますが、主従・身分関係を支える石高制にだけは手をつけることが出来ませんでした。

 

②地租改正と廃藩置県

時代が変わり明治に入ると、1873年に地租改正による税制改革が行われました。

 

 

この改革により、石高制は廃止されることになりました。

 

地租とは、すべての土地に対して賦課して一定の額を税金として納める制度のことです。

 

また、地租改正に先立ち1871年に廃藩置県が導入され、明治政府が以前の藩を廃止して地方を府と県へと改革しましたが、じつはこの時点で、石高制は機能しなくなっていました。

 

これは廃藩置県により、地方からの税の計算が石高あたりから人口あたりに変えられたためです。

 

 

まとめ

 石高制とは、豊臣秀吉から導入され江戸時代に全国的に確立された制度である。

 石高制により全国の土地の米生産量が計算され、石高という一つの単位で表されるようになった。

 石高制は、江戸時代の主従・身分関係である幕藩体制を支える役割を果たした。

 石高制により不安定な貨幣に代わり、米が全国的に共通の貨幣という役割も果たした。

 米の価格が不安定になると石高制は武士や民衆の生活を圧迫した。

 明治に入り地租改正と廃藩置県により、石高制は廃止されることになった。

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