明治時代、従来の身分制度は廃止されて四民平等(しみんびょうどう)の時代がやってきます。

 

なぜ行なわれたのか、そしてその実態はどうだったのか?今回はそんな『四民平等』についてわかりやすく解説していきます。

 

四民平等とは

 

 

四民平等とは、明治時代の初期に江戸時代の「士農工商」(しのうこうしょう)という身分制度を廃止した時のスローガンです。

 

政府は士・農・工・商の「四民」はみんな平等ですよと呼びかけ、身分制度を廃止する政策を打ち出していきます。

 

しかし四民平等と言われるようになってからも、皇族・華族・士族・平民などといった名称と、それにともなった差別意識は長く残りました。

 

四民平等の背景

①江戸時代の身分制度

江戸時代の身分制度をあらわす有名な言葉に「士農工商」というものがあります。

 

「士」は武士、「農」は農民(林業・漁業も含む)、「工」は職人、「商」は商人のことで、武士が一番上の身分でした。

 

一応、農・工・商の順にランキングされていますが、この3つは実際には身分の上下はありません。

また工・商を合わせて「町人」とも呼ばれました。

 

武士は幕府や藩に仕える身分で、苗字・帯刀(刀を腰につけること)といった特権を持っていました。

支配される側の農・工・商の人々は苗字を名乗れなかったのです。

 

また、「えた」「非人(ひにん)」と呼ばれて士農工商の下位に置かれた人々もいました。

 

それぞれの階級は家柄によって分かれていて、代々受け継がれていきました。

武士の家に生まれた子は(特別な事情がある場合を除いて)武士だし、農民の家の子は農民になったのです。

 

(※なお、近年の研究では、武士と農民・町人には身分の上下があったものの、士農工商というのは実態に合った言葉ではないということで、教科書には記述されないケースが多くなっています)

 

 

②身分制度の改革

しかし明治時代になると、文明開化の時代がやってきます。

 

ヨーロッパやアメリカから新しい文化が入ってくる中で、いつまでも武士がチョンマゲ結って刀さして威張ってる時代ではないぞというわけで、明治の新政府は身分制度の改革に乗り出します。

 

欧米には江戸時代の日本のような身分制度はなく、日本と比べると平等な社会でした。政府はこうした進んだ制度を取り入れようとしたのです。

 

ただそこには旧来の武士の階層を解体して中央集権体制を固めようという思惑もありました。

 

四民平等の内容

①武士から士族に

まず、1869(明治2)年6月に行われた版籍奉還の時に、大名や公家を「華族」、一般の藩士などを「士族」としたのがはじまりです。

 

 

農・工・商は「平民」という新しい身分とされ、華族・士族の下に置かれました。

 

当初、足軽(あしがる)や同心(どうしん)などの下級武士は「卒族(そつぞく)」とされましたが、2年後に廃止されて、世襲だった下級武士は士族に、一代限りの下級武士は平民に組み込まれました。

 

また、天皇の一族は「皇族」とされました。

 

こうしていわゆる「士農工商」を解体して、新しい身分制度が作られたのです。

 

②平民の権利拡大

1870(明治3)年には平民が苗字を名乗ることを許されます。さらに、1871(明治4)年には平民と華族・士族との結婚が許されるようになりました。

 

1871(明治4)年にいわゆる「解放令」が出て、えた・非人と呼ばれ差別されていた人々も平民に組み込まれます。

 

そして1872年には「学制」が制定され、近代的な学校制度によって国民はみんな学校で教育を受けることになりました。

 

また、旅行・移転・居住・職業選択の自由も許され、平民は古い身分制度から解放されて自由になっていきます。

 

③士族の解体

武士の階級に属する人々は約189万人もいて、影響力が大きかったこともあり、当初は士族として特権はそのまま温存されました。

 

しかし、士族には以前と変わらず秩禄(給与)が出されており、政府の財政を圧迫します。

 

そこでまず1873(明治5)年に「徴兵制」ができて、これまでの武士を中心とした軍隊にかわって近代的な軍隊が作られるようになります。

 

1876(明治9)年には「廃刀令」が出され、武士の象徴ともいえる刀を身につけて出歩くことが禁止されました。

 

 

さらに同年に「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」が行われ、士族への給与の支払いも全廃されてしまいます。

 

 

こうして士族は階級的な特権を失うことになります。

 

④華族とはなにか

いまとなっては華族という言葉はあまりピンとこないかもしれません。

 

華族とは、もともとは大名と公家を合わせた身分でした。

 

1884(明治17)年の「華族令」によって国家に功績のある政治家や軍人なども華族に加えられ「公・侯・伯・子・男」の爵位を制定。代々受け継がれる世襲の身分となりました。

 

 

「公・侯・伯・子・男」というのは、公爵(こうしゃく)・侯爵(こうしゃく)・伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)・男爵(だんしゃく)という序列の爵位のことです。

 

華族は貴族院議員になる義務があったほか、司法や財産などで特権を与えられました。

 

四民平等の影響とその後

①身分制度の再編

ここまで見てきたように、江戸時代の士農工商という身分制度は政府によって解体されました。

 

士族の特権はなくなり、平民との差がなくなって四民平等の時代が実現しました。

 

ただ、華族という新たな身分が作られるなど、身分制度が全てなくなったわけではありませんでした。

 

②残された差別

江戸時代にえた・非人とされた人々も、明治になると平民の中に組み込まれました。

 

しかし制度的には差別がなくなったように見えるのですが、被差別階層の人々には「新平民(しんへいみん)」という新たなレッテルが貼られ、社会的な差別意識は残ったままでした。

 

また、政府による差別を撤廃するための政策も不十分なものでした。

 

このため明治末期から部落解放運動が始まり、大正時代の水平社(すいへいしゃ)運動などへとつながっていきます。

 

こうした差別の解消は現代でも重要な課題として残っています。

 

③戦後に身分制度は廃止

四民平等の時代になってからも、戸籍には士族などの身分の呼称は記載されていました。

 

そうした身分制度が法的にも撤廃されたのは戦後のことです。1947(昭和22)年に戸籍法が改正され、士族などの身分呼称は完全に廃止されました。

 

また同じ年に、日本国憲法によって華族制度も廃止されています。

 

まとめ

・四民平等とは、士農工商を廃止した時の政府のスローガン。

・武士は士族、農工商は平民とされ、大名・公家は華族となった。

・平民は苗字を名乗ることを許され、移動や職業選択などが自由になった。

・士族の特権はしだいに廃止され、実質的に平民との違いはなくなった。

・華族という新しい身分が作られた。

・その後も法的には身分の違いは残されていたが、戦後になって廃止された。

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