幕末の時の政治思想は沢山あります。

 

例えば尊王攘夷とか、公武合体とか、倒幕だったり・・・。もちろん全部覚えなければいけません。

 

さて、幕末には公家と幕府がタッグを組んで困難に乗り越えようとしていました。

 

今回はそんな困難を乗り越えるために生まれた思想である『公武合体』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

公武合体とは

 

公武合体とは、幕末の時に生まれた朝廷(公)と幕府(武)が協力して日本の政治を動かしていきましょうという考え方です。

 

この考え方は主に老中である安藤信正と薩摩藩主である島津久光が支持していました。

 

公武合体が生まれた目的・理由

(黒船来航の様子)

①外国人の襲来と日米修好通商条約

1853年に黒船が来航して日本は開国することになりました。

 

 

そして、日本はアメリカと日米修好通商条約を結ぶことになりました。

 

しかし、幕府はこの条約を朝廷の意見をガン無視して結んだため、朝廷と幕府の関係にいざこざが生まれてしまいました。

 

この条約を結んだ張本人である井伊直弼は朝廷の公家を安政五年の政変で処罰しましたが、そのせいでいろんな人に恨みを買ってしまい最終的には桜田門外の変で水戸浪士に暗殺されてしまいました。

 

 

②安藤信正の老中就任

(安藤信正 出典:Wikipedia

 

 

井伊直弼が暗殺された後、老中首座(老中のトップ。つまり将軍の次にえらい人)に安藤信正が就任しました。

 

信正は条約を結んだ時に関係が悪くなってしまった朝廷と仲直りしたいために幕府と朝廷が力を合わせて日本の政治を動かしていこうとしました。

 

なんで朝廷と幕府が力を合わせたいのかというと、それは外国を追っ払うためでした。

 

安藤信正は日本が一丸となって発展すれば外国を追っ払うことができると考えたわけです。

 

公武合体と和宮降家

(和宮 親子内親王 出典:Wikipedia

 

 

安藤信正は井伊直弼が大老だった時から計画されてきた孝明天皇の妹『和宮』と、当時の将軍徳川家茂の結婚を推し進めて朝廷と仲直りして、さらに朝廷の権威を使って桜田門外の変からいろいろガタガタだった幕府の権威を立て直そうとしました。

 

孝明天皇は最初はこの結婚にあんまり乗り気ではなかったのですが、この当時はまだ公武合体派の公家であった岩倉具視の意見を聞き、この結婚によって幕府による将来の攘夷に期待して和宮降嫁を受け入れました。

 

しかし、この結婚が信正の運命を変えてしまいます。この頃、公武合体の他に新たな思想が生まれていました。その思想が尊王攘夷です。

 

 

尊王攘夷の思想はとにかく天皇中心。そのため幕府の分際で、よりにもよって天皇の妹である皇女和宮が将軍の嫁として江戸に行くことは尊王攘夷派の人たちにとっては『ふざけんな!この信正め!』と言いたくなる出来事でした。

 

その結果、信正は1862年に坂下門外で水戸藩の尊王攘夷派の武士に背中を斬られてしまい、さらにその時の対応がまずかったこともあって信正は失脚してしまいました。

 

公武合体派と尊王攘夷派の争い

①外様大名の対応と寺田屋騒動

幕府が一所懸命に公武合体を推し進めている時、外様大名は自分の藩が幕府に関われるように必死になっていました。

 

それもそのはず。これまでは外様大名は幕府から厄介払いされているような存在で、最初の頃は幕府の政治にも全然関わることができませんでした。そのため、外様大名たちは公武合体を進めているこの時をチャンスとしていたのです。

 

そんな外様大名たちが頑張っている時にある大名が京都に向かっていました。その男の名は島津久光

 

(島津久光 出典:Wikipedia

 

 

外様大名の中でも金沢藩の次に力を持ってい大名である薩摩藩の藩主の父であり、薩摩藩の偉人中の偉人である島津斉彬の弟でした。

 

久光は京都に行ったら朝廷に幕府へ勅令を出すようにお願いをします。

 

そして朝廷から無事に勅令を出すことができたら、すぐに江戸に向かって文久の改革という幕府の大改革を始めます。

 

 

この久光の改革によって、安政五年の政変で処罰されていた一橋派の大名が幕府へと復帰することができました。

 

また、久光は京都にいた尊王攘夷派の薩摩藩士を寺田屋でぶっ殺して尊王攘夷派を粛清しました。これを寺田屋騒動(寺田屋事件)といいます。

 

②八月十八日の政変と公武合体の終わり

薩摩藩が公武合体を推し進めている時に長州藩は尊王攘夷運動を推し進めていました。

 

長州藩は久光が江戸にいる時に京都で尊王攘夷派の公家や孝明天皇の許しを得て、幕府に対して攘夷の勅令を出してもらいます。

 

その時の勅令が出された時に長州藩がやらかしたのがあの四国艦隊砲撃事件です。

 

しかし、薩摩藩は負けじと会津藩や公武合体派の公家を使って長州藩の武士と尊王攘夷派の公家を京都から追放しました。これを八月十八日の政変といいます。

 

 

その後、久光はいろんな藩が会議を開いて政治をするシステムである参預会議という会議を作りました。しかし、この会議は慶喜の妨害で失敗に終わり、会津藩、桑名藩、慶喜の一会桑政権が政権を奪い返しました。

 

ただ、薩摩藩は諦めずに再び四侯会議という会議を作りますが、これも一橋慶喜が妨害して失敗に終わります。

 

久光は慶喜のこの行動に激怒して、ついには長年のライバルであった長州藩と同盟を組んで倒幕へと進んでいきました。

 

そして時代は明治維新へと向かっていくのです。

 

尊王攘夷と公武合体の違い

 

 

公武合体の反対の思想に尊王攘夷がありますが、尊王攘夷は天皇を大切にして外国や外国人を武力を使ってとにかく追い出す考え方です。

 

武力を使って追い出すのですからかなり過激。尊王攘夷の目的は武力を使って外国人を追っ払うことでした。

 

一方、公武合体は朝廷と幕府が協力して日本を発展させて外国に負けないぐらいの力を持とう!という考え方です。

 

しかし、この2つの考え方は最終的に倒幕という共通の考えにたどり着いて、この2つの考え方の代表的な薩摩藩と長州藩は同盟を組んで明治維新を成し遂げることになるのです。

 

まとめ

・公武合体とは朝廷と幕府が協力して日本の政治を動かしていこうという考え方。

・公武合体は安藤信正と島津久光が中心となって行われた。

・公武合体とは逆の考え方に尊王攘夷があった。

・最終的には公武合体と尊王攘夷は倒幕という考え方になっていった。




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