豊臣秀吉が発したバテレン追放令は、江戸時代に発令された禁教令とよく混同されがちです。テストでも間違えやすい部分です。
今回はこの『バテレン追放令』について、禁教令との違いに触れながら簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
バテレン追放令とは?
(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)
バテレン追放令とは、1587(天正15)年九州攻めの直後、豊臣秀吉が博多で発した5カ条の禁令のことです。
バテレンとはキリシタン宣教師のうち、司祭のことを示します。
追放令では、キリシタンは邪法として、宣教師の国外追放を命じました。しかし、キリシタン国からの商人の渡航は許可したため、不徹底だったといわれています。
バテレン追放令が発令されるまで
①九州平定
豊臣秀吉は、1587(天正15)年、九州平定のために博多におもむきました。
当初はキリスト教の布教を認めていた秀吉ですが、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会の教会に寄付していることを知ったため、規制にのりだしました。
②キリシタン大名の規制
まず、秀吉は同年6月18日に、キリシタンに関する布告を発しました。
そこでは・・・
✔ キリスト教の信仰は本人の心次第である。
✔ 領主が領内の農民にキリスト教の信仰を強制してはならない。
✔ 秀吉が大名(さらに家臣)に領地を与えるのは「当座(一時)」のことである。領主がかわっても農民はかわらないのだから、領民に対して理不尽なことを行えば処罰する。
✔ 200町、2000貫以上の領主がキリシタンとなる場合は秀吉の許可を必要とする。ただし、それ以下の領主については本人の心次第である。
✔ 大名やその家臣がキリスト教の信仰を領民に強制するのは、一向宗徒が寺内町をつくる以上にけしからぬことであり、「天下のさわり」になるので処罰する。
✔ 中国・南蛮・朝鮮へ日本人を売ってはならない、一般に人身売買は禁ずる。
✔ 牛馬を売買し、殺して食ってはならない。
などと規定されています。
なお、この布告もまとめてバテレン追放令とする場合もあります。
この布告は大名やその家臣を対象としたもので、その内容は、基本的にはキリスト教の信仰は自由だというものでした。
しかし、一向一揆・寺内町との類推から、領主と領民が同じ信仰で結ばれることを警戒しています。そのため、領民への信仰の強制を禁じ、その徹底のため中級クラス以上の領主の入信を許可制としたものでした。
また、領民への入信強制禁止の根拠として、個別領主権の「当座」制と、「公儀」による委託という論理を組み立てている点は特徴的です。
しかし、内容を見てわかる通り、規制というにはかなり緩い規定になっています。これは、どちらかと言えば領主やその家臣や一般市民など、日本人への布告という感じです。その次の日、宣教師を中心に全体へ発令したのが、バテレン追放令です。
バテレン追放令の詳細
(バテレン追放令 出典:Wikipedia)
①バテレン追放令の詳しい内容
1587(天正15)年6月19日、前日の布告に続いて、バテレン追放令を発しました。
そこでは・・・
✔ 前日の布告とは異なり、「日本ハ神国たる処」としてキリスト教を「邪法」と決めつけ、その布教を不法行為とする。
✔ 領主による領民への入信強制を前回同様禁じる。
✔ 宣教師に対して、20日以内に国外退去するように命じる。
✔ 南蛮貿易は「商売の事」として継続する。
✔ 「仏法」をさまたげない南蛮人は商人以外でも来日を許す。
と規定しています。
②バテレン追放令はなぜ発令されたのか?
バテレン追放令が出された理由は諸説ありますが、バテレン追放令の内容からも類推することができます。
1つは、領民へキリスト教への入信を強制させていた領主がいるということです。キリスト教を発展させるために神社や寺を破壊するものも少なくなかったようです。
2つ目は、一向一揆のようにキリスト教徒が蜂起して反乱を起こすことを恐れたためです。
3つ目は、人身売買をやめさせるためです。長崎の大村純忠は貿易を盛んにするためにキリスト教への改宗を積極的に行っていましたが、その過程で、キリスト教に入信しなかったものを海外へ売り飛ばしていたのです。これを、秀吉は「南蛮人が日本を植民地化する」というようにとらえたようです。
これらに危機感を覚えた秀吉は、バテレン追放令を発令するに至りました。
③秀吉のねらい
「邪法」禁止は、前日の布告での入信自由制をわずか1日で否定したことになります。
しかし、それはバテレン追放の根拠を示すためであり、その一方で南蛮貿易は継続する方針をとっています。
このように見てくると、追放令という割にはやはり緩い規制のような感じがしますね。この法令がキリスト教を規制するものとして作用する余地は当初から乏しかったといえます。
この規制の緩さは、秀吉のねらいが関係しています。彼は、一向一揆の再版としてのキリシタン一揆の危険性を叫んでキリシタン大名をけん制することで、その南蛮貿易独占体制を打破しようとしたのです。
④南蛮貿易の奨励
秀吉は、バテレン追放令でキリスト教を取り締まる一方、1588(天正16)年に海賊取締令を出して倭寇などの海賊行為を禁止し、海上支配を強化しました。
それとともに、京都・堺・長崎・博多の豪商らに南方との貿易を奨励したので、貿易活動と一体化して布教がおこなわれていたキリスト教の取締りは不徹底に終わりました。
⑤ちょっと余談
バテレン追放令が発令された後も、南蛮貿易を盾に、追放令を守らずに滞在する宣教師は多くいました。
そんななか、1596(慶長元)年、土佐に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の乗組員が、スペインが領土拡張に宣教師を利用していると証言したことから(サン=フェリペ号事件)、秀吉は宣教師・信者26名を捕えて長崎で処刑が行われました(26聖人殉教)。
その背景には、日本への布教のため進出したスペイン系のフランシスコ会とイエズス会との対立があったとされています。
この事件を皮切りに、不徹底だったバテレン追放令を励行する人々が増えていきました。こういった流れが、江戸時代のキリスト教規制につながっていきます。
江戸時代の禁教令とバテレン追放令の違いについて
①禁教令の意味
一般的に禁教令というと、江戸時代に出されたキリスト教規制の法令のことを指します。
しかし、キリスト教規制の法令という広義な意味で使われることもありますので、秀吉が発令したバテレン追放令も禁教令のひとつとして数えられることもあります。
間違えがちなのはここが原因かと思います。テストで解答する際は、秀吉なのか、江戸幕府なのかをしっかり確認しましょう。
②江戸時代の禁教令
江戸時代の禁教令は、鎖国政策の一環として行われました。
江戸幕府も当初、貿易継続のためキリスト教を黙認していました。しかし、キリスト教の布教がスペインやポルトガルの侵略を招く恐れを強く感じ、また信徒が信仰のため団結することも考えられました。
そのため、1612(慶長17)年、直轄領に禁教令を出し、翌年これを全国に広げて信者に改宗を強制しました。
この後、幕府や諸藩は、宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国外追放など激しい迫害を加えるようになりました。多くの信者は改宗しましたが、一部の信者は迫害に屈せず、殉教するものが後を絶たなかったといいます。
さらに、1637年の島原の乱が契機となって17世紀中期に宗門改めなどが制度化されるに至ります。
③バテレン追放令と禁教令の内容の違い
バテレン追放令と禁教令は、一言でいえばその徹底ぶりが違います。
バテレン追放令では、基本的に貿易に関わる商人や「仏法」を妨げない南蛮人は来日を許されていました。
しかし、禁教令ではバテレン追放はもちろんですが、ポルトガル人の子孫やポルトガル人を養子にした父母なども追放しました。さらに、日本から外国へ行くことも禁止され、外国から来た日本人は死罪となりました。最終的には、ポルトガル船の来航自体も禁じられます。
このように、バテレン追放令と江戸時代の禁教令では、その徹底ぶりが全く違うのです。
バテレン追放令の語呂合わせ
バテレン追放令が発令されたのは、1587年です。
語呂合わせは「以後(15)は(8)な(7)らんと宣教師追放」と覚えましょう。
まとめ
・バテレン追放令は、1587(天正15)年九州攻めの直後、豊臣秀吉が博多で発した禁令のこと。
・宣教師追放を命じる一方、南蛮貿易は奨励したため、不徹底に終わった。
・バテレン追放令は秀吉が発令し、禁教令は江戸幕府が発令した。
・禁教令はバテレン追放令よりも徹底した内容だった。
・語呂合わせは「以後(15)は(8)な(7)らんと宣教師追放」。