江戸時代は多くの災害や飢饉に見舞われました。
そんな飢饉に対して、8代将軍徳川吉宗は享保の改革を主導し、『お米将軍』と呼ばれるほど米に対して多くの政策を行ないました。
その享保の改革の中で、1722年に行われたのが、新田開発奨励「町人請負新田」です。
今回はそんな『町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
町人請負新田とは?
町人請負新田とは、江戸時代に幕府のお触れ書きを受けて有力町人が新田開発をした水田のことを言います。
代表的な町人請負新田は「鴻地新田」と「紫雲寺潟新田」があります。
当時の幕府は災害に見舞われ、収入である米が不作で財政難に陥っていました。
そこで町人請負新田を奨励。これにより、干拓技術の向上と農具の発展により、全国各地で新田が増えました。
また、町人請負新田を行ったことで寄生地主制を進める一因になりました。
新田が増えたことにより、農民は普請に駆り出されたり、重税に苦しむ結果となり、幕府や開発者である町人にはメリットがありましたが、農民はさらに苦しむ結果になりました。
町人請負新田を作った目的
当時、日本各地では洪水などの水害により、米の不作が続き、その結果幕府の収入が少なくなっていました。
そこで、新田を開発することで作付面積を増やそうと考えました。
このように幕府が新田開発を奨励したのは年貢の未納への不安と年貢の増収が目的でした。
また、16世紀から17世紀にかけて人口が爆発的に増えたために慢性的な食料不足に悩まされており、これも政策導入に大きな影響を与えました。
代表的な町人請負新田
享保の改革がはじまると、新田開発は官営の代官見立新田から町人請負新田に主流が変わっていきました。
①鴻地新田
金融業、海運業、酒造業を営んでいた大阪の鴻地家が開墾した新田のことで、現在の東大阪市と同じくらいの大きさで江戸時代で最も大きい新田でした。
新田開発される前は低湿地だったので木綿や蓮根の栽培が行われていました。
検地を行い、見立てでは3000石といわれましたが、実際の収穫高は3万石でした。
新田の中に会所と呼ばれる事務所があり、年貢米の回収や貯蔵、堤防や水路の管理を行ったり、役人への対応を行う場所がありました。
鴻地家は農民に土地を切り売りし、小作料を徴収。この利益でまた新しい田を開墾し、後に幕府や藩よりも大きな力を持つようになりました。
②紫雲寺潟新田
越後国(新潟県のあたり)にあった紫雲寺潟という干潟を干拓して作った新田のことです。
紫雲寺潟はもともとは河川が多く流入していたので、水難防止のための遊水池でした。
紫雲寺潟新田は江戸時代に作られた新田の中では典型であり、かなり大規模なものでした。
しかし、木曽川周辺は水害が多かったため、4年かけ輪中という堤防の工事を行い干拓。2000ヘクタールにも及ぶ新田が増え、村も増えました。
町人請負新田による農業への影響
①測量の向上
新田が増えたことで食糧生産量が増え、江戸中期には2500万石だった石高が江戸後期3000万石に増えました。
これを支えたのが測量技術でした。
以前は傾斜地でしか田んぼは作れませんでしたが、平地や緩やかな地域でも田んぼが作れるようになりました。
また、湖や沼地の干拓技術も向上し、排水路をつくることで水田化できるようになりました。
②農具の発展
石高の飛躍的な向上には農具の発展も一因しました。
備中くわや踏み車、千歯こきという農具の登場により効率よく作業ができるようになりました。
さらに農業全書という宮崎安貞著書の農民のやり方を記した本が出版されました。
町人請負新田のその後
①収穫高の向上
町人請負新田により、畿内よりも水田が少なかった東北や関東、中国や九州地方の湖や沼地が干拓され田んぼの開発され、水田が増えたことにより米の収穫高が上がりました。
②農民と町人の関係
有力町人は新田を開発すると地主化し、小作人たちから小作料を徴収しました。
これを寄生地主制といいます。
これが商業資本の農村支配をすすめる一因になりました。
③環境破壊
鴻池新田では紫雲寺潟新田は古くから水害が多い土地で農地には向きませんでした。
そこを無理に干拓するために巨額の工事費をつぎ込みましたが、その費用は農民に重税として課されたのです。
それだけでなく、農民達は水害があるたびに川普請に駆り出されました。
他の地域も無理な新田開発や干拓の影響で水辺がなくなり、干ばつや水害など自然破壊に繋がり、また水資源をめぐって村同士で争いが起きたり、洪水が頻発して堤防が決壊するなど失敗する地域ができました。
④農民の不満
大規模な新田開発により、結果的には年貢が増え、幕府の財政はよくなりました。
しかし、その一方で年貢が高い本田を耕さずに年貢の安い新田を耕す農民も出てきました。
それにより、水田開発は次第に制限がもうけられ、畑地開発に変わっていきました。
享保の改革による農村の疲弊や年貢が増えたことにより農民の不満が高まり、結果、一揆や打ちこわしが増える原因になりました。
享保の改革【その他の政策】
(徳川吉宗 出典:Wikipedia)
①米に関する政策
徳川吉宗が行った米に関する政策は、上げ米の制(大名の石高一万石に対して100石の米を献上する代わりに参勤交代の江戸在住の期間を半年にする)や、定免法という年貢の納める量を四公六民から五公五民に新たに設定しました。
他にも「見立新田十分一の法」という新しく開墾した田んぼの収穫高の10分の1の利益を保証するお触れ書きを出し、開墾を奨励しました。
また、鍬下年季という原則開墾した田んぼには3年間年貢を課さないこと、新田は本田に比べて年貢を安くする決まりをつくりました。
江戸時代に行われた新田開発には町人請負新田の他に官営のものが代官見立新田、藩営新田で、民営のものが土豪開発新田、村請新田があります。
②その他政策
・公事方御定書
→大岡忠相らが裁判の基準を制定、編集した。
・足高の制
→役職の人材登用で、石高の低い人を在職中にのみ給料(禄)を足すというもの。登用された人の子供や孫には適用されない。
・町火消し
→江戸いろは組を結成し、火除地や広小路の設定をした。
・小石川療養所の設置や目安箱の設置。
・キリスト教以外の洋書輸入の一部解禁。
・商品作物栽培奨励
→甘藷、甘蔗、櫨、朝鮮人参、胡麻の栽培奨励
・相対済令令
→金銭訴訟を受け付けず、倹約令により支出を抑えさせた。
また、享保の飢饉では米の価格があがったので囲い米という幕府や藩で貯蔵していた米を、庶民に放出し米の値下げを図るなど財政再建を図ったり、商業資本を掌握、江戸の都市を強化をしたのが特色です。
まとめ
✔ 町人請負新田とは幕府のお触れ書きを受けて有力町人が開発した新田のこと。
✔ 幕府の財政難により年貢の未納を避け、増収するため、人口増による食糧難だったため。
✔ 主な新田は鴻池新田、紫雲寺潟新田がある。
✔ 干拓技術の向上により、東北、関東、中国、九州地方の農地が増えて石高があがった。それには干拓技術の向上や農具の発展が背景にあった。
✔ 町人請負新田を行ったことで、商人資本の寄生地主制の一因となり、これによって農民達の不満が増え一揆や打ちこわしが起こった。