現在の京都市にはかつて平安京と呼ばれる都がありました。京都の街並みが碁盤の目のようになっているのは、その名残とされています。

 

794年に朝廷が平安京に移されて以来、1869年に政府が東京に移るまでの約1100年にわたって、この地は天皇が政治を行う場所でした。

 

今回は、『平安京』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

平安京とは?

(平安京復元模型 出典:Wikipedia

 

 

平安京とは、794年に桓武天皇が遷都した都です。

 

784年までは平城京、それ以後10年間は長岡京が都でした。のちの平清盛による福原への遷都(1180年)を除けば、1869年の東京への政府移転まで、およそ1100年の間、日本の首都として機能してきました。

 

平安京は唐の都長安をモデルに造られていました。東西南北に走る道路によって、碁盤の目のように区画されていたのが特徴です。

 

平安時代にはここが文化の中心地となりましたが、室町時代後期には応仁の乱によって大部分の建物が焼失してしまいます。

 

平安京の遷移理由

 

 

桓武天皇が遷都を行った理由はいくつか考えられますが、その一つは人心の一新でした。

 

当時、平城京では朝廷内で激しい権力争いが起こっていました。もともと皇位継承をするはずのなかった桓武天皇が即位したのも、この権力争いの影響でした。

 

桓武天皇はこうした権力争いをなくすため、藤原種継の勧めにしたがって、平城京を放棄することを決めます。

 

新たな都に決まったのは、現在の京都府南西に位置する長岡京でした。

 

 

(日向市 長岡京宮殿跡)

 

 

これは、奈良の仏教勢力の影響力を弱めるための処置でもありましたが、最大の理由は水上交通の改善にありました。

 

長岡京の港である山崎津や淀津には、当時太平洋や瀬戸内海からやってくる船がそのまま入ることができました。これによって、水上交通の便は、平城京のころよりも格段に良くなります。

 

また、天皇の信任が厚い藤原種継の親族がこのあたりに住んでいたことも理由の一つと考えられています。

 

ところが、長岡京が都であったのはわずか10年間です。その原因となったのが、藤原種継の暗殺でした。

 

当時皇族であった早良親王が種継暗殺の罪を問われ、寺院に幽閉された後、流罪になり失意の中で死んでしまいます。その後、長岡京で洪水や政争が続いたため、桓武天皇はこれを早良親王の怨霊のたたりと考えて、長岡京を放棄することを決意します。

 

こうして、794年に長岡京の北東に位置する平安京へと都が移りました。

 

平安京の特徴

(復元された唐大明宮 出典:Wikipedia

 

 

平安京も平城京と同じく唐の都長安をモデルに造られていました。

 

規模は南北5.32km、東西4.57kmで、北部中央に天皇が政治を行う宮城(大内裏)があり、中央を南北に走る幅84メートルの朱雀大路によって、左京と右京に分けられていました。

 

さらに、左京と右京も東西南北に走る道路によって区画され、南北9条東西4の街並みができていました。現在の京都の街並みが碁盤の目のようになっているのは、この名残と言われています。

 

①天皇

(桓武天皇 出典:Wikipedia)

 

 

平安京に遷都した桓武天皇は、東北地方の蝦夷(えみし)を討伐したことでも有名です。

 

この討伐に貢献した坂上田村麻呂は、その後征夷大将軍に任命され、今の岩手県あたりに軍事拠点を作りました。

 

また、桓武天皇は地方政治を改革するため、国司や郡司に対する監督を強化します。国司が交代するときに不正がないようにチェックする役職として、新たに勘解由使(かげゆし)を設けました。

 

さらに、軍事改革として奈良時代末期に私物化が進んでいた軍団を廃止し、地方の有力者の子弟を兵士として採用して、新たな軍隊を創設しました。これが健児(こんでい)の制と呼ばれるものです。

 

他方、農民に対しては、出挙(すいこ)の利率や雑徭(ぞうよう)の日数を軽減するなど、税負担を改善する政策を行いました。

 

桓武天皇の時期はどの政策も天皇自らが主導権を握った点に特徴がありました。この特徴は次の平城天皇や嵯峨天皇にも見られます。

 

ところが、平安時代中期になると、藤原氏が勢力を強めて、10世紀後半には摂関政治の全盛期を迎えます。これによって、天皇が自ら政治を行うことは少なくなりました。

 

さらに、平安時代後期になると、今度は藤原氏の勢力が弱まり、11世紀後半には白河上皇院政を始めるようになります。

 

また、12世紀後半には平氏が権力をもつようになり、武士の時代へと突入していきます。

 

②平安京の場所

(平安京の位置 出典:Wikipedia

 

 

平安京は現在の京都市の市街地にありました。平安京当時の街路が今も残っています。

 

平安京の立地は、中国の風水から見ても適したものでした。中国では古くから4方位に玄武・朱雀・青龍・白虎の四神を対応させる「四神相応」の発想がありましたが、平安京の場合は四神を順に北の船岡山、南の巨椋池、東の賀茂川、西の山陰道になぞらえていました。

 

この地域には、桂川、賀茂川、宇治川、木津川、そしてそれらが合流した淀川が流れているため、水上交通に適していました。桂川と賀茂川の合流地点あたりには「鳥羽の津」が設けられ、平安京の玄関口としての役割を果たしました。

 

また、この地域は北陸道と山陰道の中間に位置していることもあり、陸上交通の要でもありました。

 

③平安京の時代

 

 

都が平安京に移されてから、鎌倉幕府が成立するまでの約400年間が、平安時代と呼ばれています。

 

この時代は、古代から中世への移行期に当たり、奈良時代に確立された律令国家の枠組みがだんだん崩壊していくのが特徴です。

 

平安時代中期から後期にかけては、寺社や貴族が荘園をもつようになってきます。

 

 

荘園は私有地であるため、公地公民を掲げた律令制とは真っ向から対立するものですが、天皇の権力が弱まっていくにつれて、荘園は増えていきました。

 

その後、そうした荘園を守る人たちとして武士が勢力をもつようになっていきます。12世紀後半には、有力武士の一派であった平氏が中央政界に進出し、武士の時代を迎えるようになります。

 

文化の面では、平安時代初期は唐風文化がもてはやされていましたが、中期になると国風文化が栄え、紫式部『源氏物語』や清少納言『枕草子』に代表される文学作品や、寝殿造などの建築が発展しました。

 

④平安京の人口

平安京の人口については、確かな証拠が残っていないため、さまざまな試算があります。

 

ある試算によれば、平安時代前期に平安京のほぼ全域に人が住んでいたと仮定すると、人口は12万~13万人だとされています。

 

しかし、最近の考古学の調査結果から、平安京の中でも左京に比べて右京の開発が遅れていたことや、湿地や水路などがあって人が住めない区域があったことが分かっています。

 

こうした事実を考慮すると、平安京の人口は10万人前後だったとみるのが適切なようです。

 

平安京のその後

(応仁の乱 出典:Wikipedia)

 

 

室町時代後期になると、応仁の乱によって都の中の大半の建物が焼失し、貴族たちは地方に逃げ延びることになります。

 

現在の京都のもとになったのは、豊臣秀吉が復興した後の都です。

 

まとめ

 平安京は、794年に桓武天皇が遷都した都。

 1869年に東京へ政府が移転されるまで、日本の首都として機能してきた。

 平安京は唐の都長安をモデルに造られ、東西南北に走る道路によって、碁盤の目のように区画されていた。

 平安時代には文化の中心地であったが、室町時代後期の応仁の乱で大部分の建物が焼失し、都は廃れてしまう。

 現在の京都のもとになったのは、豊臣秀吉が復興した後の都である。




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