1833年から始まった天保の大飢饉により、都市でも農村でも多くの困窮者が溢れます。

 

その中で起こったのが、生田万の乱でした。

 

今回は、そんな『生田万の乱(いくたよろずのらん)』について簡単にわかりやすく解説します。

 

生田万の乱とは?

 

 

生田万の乱とは、1837年6月に越後国柏崎(現在の新潟県柏崎市)で、国学者の生田万(いくたよろず)が起こした反乱のことです。

 

天保の大飢饉の最中に、貧民救済を目的とした蜂起でした。

 

この乱は、同年3月に起こった大塩平八郎の乱から影響を受け、起こりました。

 

生田万は、5月30日に同志たちと乱を起こしますが、翌6月1日には、乱は鎮められ生田万は自害して終わります。

 

大塩平八郎の乱に引き続いて起こった生田万の乱は、その後幕府や藩の政策に反対する農民一揆や打ちこわしへと続くものでした。

 

生田万の乱が起こった背景

 

 

生田万の乱が起こった背景は、どのようなものだったのでしょうか。

 

①天保の大飢饉

天保の大飢饉は、1833年から1839年まで続きました。特に1835年から1837年にかけて最大規模化しました。

 

大飢饉の主な原因は、1833年の大雨による洪水と冷害による大凶作。

 

東北地方での被害が大きく、特に仙台藩では新田開発を行い、米作に偏った政策を行ったために、被害が拡大しました。

 

50年前の天明飢饉と比較すると死者数は少なかったのですが、農村で貧富の差が広がっていたため、貧しい農民たちから餓死者を多く出しました。

 

幕府は江戸21ヶ所に救済施設を設けますが、収容人数がたったの5800人で、実際の救済者は70万人を超えました。

 

 

②大塩平八郎の乱

天保飢饉では、米を買い占める商人が出たために米の価格が暴騰して、百姓一揆や打ちこわしが頻繁に起こります。

 

1837年3月には、大阪で大塩平八郎の乱が起こりました。

 

大阪では、飢饉のために毎日約150人から200人の餓死者を出していました。

 

大塩平八郎は大阪東町奉行の元与力であり学者でした。

 

 

Oshio Heihachiro.jpg

(大塩平八郎 出典:Wikipedia

 

 

大阪町奉行は幕府が設置した奉行所であり、大塩平八郎はそこの役人をしていた人物でした。

 

大塩は飢饉の状況を見て、民衆を救済。また、奉行所に民衆救済を提案しますが拒否されます。

 

こうした状況から、大塩は幕府に対して反乱を起こしたのでした。

 

 

生田万という人物について

(生田万 画像引用元

 

 

生田万は大塩平八郎の乱に触発されて、反乱を起こすことになります。

 

この生田万はどのような人だったのでしょうか?

 

①平田篤胤との関係

生田万は、1801年に館林藩(現在の群馬県館林市)の藩士の家に生まれます。

 

儒教の一つである陽明学を勉強するようになり、24歳の時に江戸で国学者の平田篤胤に入門します。

 

 

Portrait of Atsutane Hirata.jpg

(平田篤胤 出典:Wikipedia

 

 

平田篤胤の信頼も厚く、篤胤から「後を継ぐ者は国秀(生田万の名)」と言われるほどになります。

 

その後、生田万は幕政批判をするようになり篤胤から藩に帰るようにと諭されます。

 

しかし、1828年に藩主に藩政改革の書を提出して、藩からは追放処分を受けました。

 

 

②生田万と柏崎

1831年には、父の死により藩に戻ることを許されますが、弟に家を譲って、万は上野国太田藩(現在の群馬県大田市)で、私塾を開いて教育の道へ進みます。

 

その後、1836年の天保飢饉のさなかに、万の指導を受けたことのある柏崎(越後国柏崎 現在の新潟県柏崎市)の神官樋口英哲が万を柏崎に招きます。

 

そこで私塾を開いた万は、飢饉で餓死する庶民を目の当たりにします。

 

ちなみに、柏崎小学校の一角には、生田万の墓碑と供養碑、また天保の大飢饉で餓死した人たちへの供養碑も立っています。

 

③生田万と大塩平八郎

柏崎で飢饉により苦しむ人たちを目の当たりにした生田万は、大塩平八郎の乱が起こったのを知ると、蜂起の際には平田篤胤の弟子であるにもかかわらず、大塩平八郎の弟子という意味の「大塩門人」と称しました。

 

それほど、大塩平八郎の行動に共鳴していたのです。

 

また、幕政批判をするなど、万は若い頃から正義感の強く、不正を憎む性格だったことも乱を起こす要因になっています。

 

生田万の乱の内容

①生田万の乱の始まりと参加者

乱は、1837年6月1日の明け方、生田万と同志5名が柏崎の陣屋を襲撃したことで始まります。

 

陣屋とは役所が集まっている場所で、そこを襲い金品などを奪って庶民に分け与えました。

 

同年4月に、生田万は飢饉の状況をこう書き記しています。

 

「此節(このせつ)は四斗四升入にて一両二朱に御座候、五十六里はなれし山方(やまがた)にては葛(くず)之根などを喰(く)ひ、小児をば川へ流し申候・・・・」

訳:米の値が上がり、山では葛の根を食べて、子どもを川に流しているという状況

 

この書簡には大塩平八郎のことも書かれてあり、生田万がいかに大塩の乱に影響を受けたかが分かります。

 

万と行動を共にした同志は、浪人や村役人、名主などでした。

 

②生田万の乱の終わり

大塩の乱は百姓も参加し、一部の被差別部落民まで巻き込んでいたのに対して、生田の乱は生田が柏崎に滞在して八ヶ月という短期間で起きたため、庶民を巻き込むことは無理でした。

 

そのため、乱が起きて次の日には乱は鎮められ、万たち参加者は自害、もしくは反撃の際に殺害されました。

 

生田万の乱のその後の影響

 

 

乱の後、一時的にでも米の値段が下がったり、役所である陣屋が飢えている人々に米を与えるなどしました。

 

大塩平八郎の乱と生田万の乱の後、摂津国能勢(現在の大阪府)でも能勢騒動が起こり、各地でも一揆や騒動が広がりますが、それらは「世直し」を目的とするものが増えました。

 

短期間で終わった乱でしたが、生田万の行為により、世の中に警鐘を鳴らすことができたのです。

 

生田万の死後、その妻も囚われの身となりますが、子ども二人を絞殺して自害しました。

 

その際に「烈女不更二夫(れつじょはにふをかえず)」という歌を残して有名です。

 

まとめ

✔ 生田万の乱とは、天保の大飢饉の最中1837年5月31日に起こった藩に対する乱である。

✔ 生田万は国学者で大塩平八郎の乱に触発され、貧民救済を目的として乱を起こした。

✔ 生田万の乱は、生田が私塾を開いていた越後国柏崎で起こった。

✔ 生田万の乱に庶民を巻き込むことができずに、わずか1日で鎮められた。

✔ 生田万の乱の影響で、各地に「世直し」型の一揆や騒動が増えていった。




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