【満州事変とは】簡単にわかりやすく解説!!原因(きっかけ)や目的・影響など

 

中学校の歴史教科書でも登場する大事件『満州事変』。

 

でも、陰謀めいた動きもあってちょっと実態が分かりにくい事件でもあります。

 

今回は、満州事変の背景から直接の原因や結果、影響について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

満州事変とは?

(満州事変。瀋陽に入る日本軍の様子 出典:Wikipedia

 

 

満州事変とは、1931年(昭和6年)南満州鉄道警備にあたっていた日本軍(関東軍)が柳条湖での事件をきっかけに満州全土を占領した事件です。

 

満州事変後、日本の関東軍は中国東北部に満州国を建国。

 

これをきっかけに日本は国際連盟脱退、国内は軍部独裁の方向に向かっていきます。

 

満州事変の目的。日本はどうして満州に進出したのか?

(赤部分が満州 出典:Wikipedia

 

 

日露戦争後、日本は満州や内モンゴルに進出し植民地にすることを狙っていました

 

ロシアとは何度かの話し合いの末、互いの勢力圏を確定させました。

 

辛亥革命の後にできた中華民国は日本の動きを認めず、権利を回復することを主張していました。

 

しかし、中華民国は国内が混乱していたため日本の動きを止めることができなかったのです。

 

満州事変が起こった背景や原因・結果

(昭和六年満州事変。当時の動画)

①中華民国の混乱と日本の動き

満州事変が起こる当時の中華民国は不安定な状況が続いていました。

 

そこで、植民地が欲しい日本は中華民国各地で軍閥(地方を支配するボス)が互いに争う状況を利用します。

 

満州を支配していた軍閥は張作霖

 

日本は彼を支援することで日本の権利を拡大しようとしたのです。

 

②張作霖支援はうまくいったのか?

当時、中華民国で最も有力となっていたのは中国南部から北上してきた蒋介石です。

 

蒋介石は中国全土を統一するため軍を北に向けてきたのです。

 

一方、張作霖は北京から満州にかけての地域を支配していました。

 

日本は張作霖に北京を放棄して満州の守りを固めるようアドバイスをしますが、張作霖は蒋介石と決戦してしまいます。

 

結果は張作霖の敗北。満州に逃げ帰ることにりました。

 

③列車を爆破!張作霖爆殺事件

(張作霖事件の現場)

 

 

敗北し力を失った張作霖は無用の存在でした。

 

現地を支配していた関東軍は撤退する途中の張作霖を列車ごと爆殺してしまいます。

 

首謀者の関東軍参謀の河本大作大佐は停職処分という軽い処分で済まされました。

 

このことに納得しなかった昭和天皇は時の首相である田中義一を叱責し、田中は総辞職してしまいました。

 

 

④張作霖を排除して、日本が満州を支配できたのか?

日本は満州を支配はできませんでした。

 

むしろ張作霖のあとを継いだ息子の張学良は日本軍に強い恨みを持つことになります。

 

そしてなんと蒋介石の味方になることを宣言し、日本と決別してしまいました。

 

結果的に日本の権益はかえって危ないものとなりました。

 

⑤満州事変の立案者!石原莞爾

(石原 莞爾 出典:Wikipedia

 

 

張作霖爆殺事件から四か月後の1928年10月、石原莞爾が関東軍の参謀となりました。

 

石原は満州事変を立案・実行に移した中心人物でした。

 

彼は東洋の代表である日本が西洋の代表であるアメリカと最終戦争を行うと予言。

 

その戦争に日本が勝つためにはどうしても満州が必要だというのが石原の考えだったのです。

 

ちなみに、石原はその戦争は航空機が中心となると予言し、のちにその予言は的中します。

 

⑥柳条湖事件から満州全土の占領(満州事変)

(柳条湖の爆破現場。事件直後の写真)

 

 

1931年9月、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路の一部が爆破されました。

 

関東軍はこれを中国の仕業だとして軍事行動を開始。しかし、これは関東軍による謀略でした。

 

関東軍は計画通りに満州各地を次々と占領し、1932年2月、関東軍は満州全土を制圧しました。

 

そして、張学良は南へと退きました。

 

張学良は中国国民党(蒋介石の配下)として戦い、毛沢東との協力を拒む蒋介石を力づくで妥協させ(西安事件)、毛沢東との共同戦線を作らせます(抗日民族統一戦線)。

 

日本政府の対応

(総理在任時の斎藤実 出典:Wikipedia

 

 

若槻は不拡大!犬養は満州国不承認!斎藤実は満州国承認!

 

①第二次若槻礼次郎内閣

事件発生当時の総理大臣は若槻礼次郎でした。

 

若槻は騒ぎを大きくせずに収取する道を探しました(不拡大方針)。

 

しかし、関東軍は若槻の制止を振り切って戦線を拡大します。ついにはコントロール不能となった若槻は内閣を総辞職します。

 

犬養毅内閣

若槻の跡を継いだ犬養毅も軍の暴走を止めようとしました。

 

中国と直接交渉し欧米との摩擦を最小限にしようとしますが、軍部の反発を買います。

 

1932年5月15日、犬養は海軍青年将校によるテロ事件(五・一五事件)によって暗殺されてしまいます。これにより、大正時代から続いた政党内閣は幕を下ろしたのです。

 

 

斎藤実内閣

犬養の後を受けた斎藤は日満議定書を締結し、満州国を承認します。

 

関東軍の行動は正当化されたのです。

 

関東軍の動きに対する日本国民の反応

 

 

新聞は「守れ満蒙(満州と内モンゴル)、帝国の生命線」などと書き満州事変を擁護しました。

 

国民に対して戦争熱をあおり、軍事行動を支持する報道をしたのです。

 

国民の中には1920年代の不況に対して政党内閣が有効な手を打てなかったことへの反発がありました。

 

また、協調外交(幣原外交)が弱腰だという批判もありました。

 

満州事変がそれらの解決になるかもしれないという期待感があり、こうして強硬な世論が作られていったのです。

 

満州事変の結果。満州国の建国

(満州国皇帝の座についた溥儀)

 

 

満州事変後、関東軍が中国東北部に満州国を建国しました。

 

辛亥革命で退位した清朝最後の皇帝である溥儀を執政として作られた国ですが、実際は関東軍が支配権を持っていたといってもよい国です。

 

満州国の重要な役職には、関東軍の承認がないとなることはできませんでした。

 

犬養内閣は満州国を承認しませんでしたが、斎藤内閣はこれを承認したのです。

 

満州事変が与えた影響

(リットン調査団による満鉄の爆破地点を調査)

①国際関係

中華民国は日本の行動を国際連盟に訴えました。

 

それに基づきリットン調査団が派遣されました。

 

その報告書で満州国建国は認められないとされ、国際連盟は日本に占領地から引き上げるよう勧告する案を採択しました。

 

日本代表の松岡洋右は会議から退場、国際連盟を脱退します。

 

そこから、日本の本格的な孤立化が始まります。

 

 

②国内での軍部の台頭

満州事変以後、青年将校たちによる実力行使の動きが活発になりました。

 

犬養毅を暗殺した五・一五事件、陸軍の一部が首都東京の主要施設を占領したクーデタ未遂事件である二・二六事件などが起きました。

 

特に二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣は陸軍の要求を大幅に飲んで成立しました。

 

こうして軍が政治に介入する軍部独裁の方向が強まっていきました。

 

 

まとめ

 満州事変は関東軍が柳条湖事件をきっかけに満州を占領した事件。

 張作霖爆殺事件では満州を支配できなかった。

 満州事変の企画立案者は石原莞爾。

 若槻は不拡大、犬養は満州国不承認、斎藤実は満州国承認。

 満州事変後、日本は国際的に孤立。

 満州事変後、日本では軍部独裁が強まる。