貧しい人や身寄りのない人たちを無料で治療した医療施設「小石川養生所」。

 

8代将軍徳川吉宗の目安箱から生まれた施設でした。

 

今回は江戸時代から明治時代にかけ開設され、ドラマや映画に登場する“赤ひげ先生”の舞台にもなった『小石川養生所』についてわかりやすく解説していきます。

 

小石川養生所とは 

(現在の小石川養生所の井戸 出典:Wikipedia

 

 

小石川養生所(ようじょうしょ)とは、1722年(享保7年)に江戸幕府の薬草園「小石川御薬園(おやくえん)」の中につくられた医療施設のことです。

 

貧しい病人や身寄りのない病人に薬を与え、無料で治療を行っていました。

 

1868年、明治維新によって廃止されるまでのおよそ140年間、江戸の貧しい病人たちの命をつなぐ医療施設でありつづけました。

 

小石川養生所設立の目的・背景

 

①小石川養生所設立のきっかけ

小石川養生所がつくられるきっかけとなったのは、8代将軍徳川吉宗で有名な目安箱

 

目安箱は、江戸時代の三大改革である吉宗によって行われた享保の改革の政策のひとつです。

 

 

江戸庶民の意見や提案を受け付けることを目的に、江戸の辰ノ口(千代田区丸の内)に毎月2日、11日、21日の3日間設置されました。

 

投書できるのは町人や農民で、武士の投書は禁止。投書する際は住所・氏名の記名が必要でした。

 

目安箱には鍵がかけられていて、途中誰にも開けられることなく、将軍吉宗の目の前で初めて開けられました。

 

そして、吉宗自ら投書に目を通しました。

 

つまり、家臣たちから忖度(そんたく)や隠ぺいをされることなく、庶民たちの意見が将軍に直接伝えられるしくみになっていました。

 

その目安箱に入っていたのが『病気やケガで苦しんでいる貧しい人や身寄りのない人たちを救うため、彼らが無料で利用できる医療施設、施薬院(せやくいん)をつくってほしい。』という、江戸の町医師小川笙船(しょうせん)からの要望書でした。

 

笙船が設立を要望した施薬院とは、薬草を栽培し、貧しい病人たちに薬を与え、救うための施設のこと。その起源は飛鳥時代までさかのぼり、聖徳太子だという説もあります。

 

要望から約1年で小石川養生所設立

(大岡忠相 出典:Wikipedia

 

 

笙船からのこの熱意ある訴えは吉宗にしっかりと届きました。

 

吉宗はさっそく、町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)に命じて、施薬院の設立に取りかかりました。

 

笙船が目安箱に投書したのが1722年の1月、そして、その年の12月には施薬院「小石川養生所」が設立したと伝わっているので、わずか1年での実現となりました。

 

笙船もさることながら、吉宗の実行力にも脱帽ですね。

 

小石川養生所を要望した赤ひげ先生「小川笙船」

 

 

目安箱に施薬院の設立を要望し、小石川養生所の所長を務めた小川笙船とはどんな人物だったのでしょうか?

 

小川笙船(1672年~1760年)は、近江(滋賀)出身。

 

江戸で町医者を開業し、腕の良い医者として有名でした。

 

この町医者としての仕事を通じて、一部の裕福な人たちしか診療を受けられない現実に心を傷め、目安箱に施薬院の設立を要望しました。

 

小石川養生所設立後は、“病気から人々の命を守る”という使命感をもって、貧しい人たちの診療を続けるかたわら、若い医者の育成にも力を注ぎました。

 

この医者として使命感に燃えた模範的な笙船の姿は、テレビや映画の主人公としてたびたび登場する"赤ひげ先生"のモデルにもなりました。

 

小石川養生所についての詳細

小石川養生所が建てられた場所

 小石川養生所が建てられたのは、江戸の小石川御薬園(文京区)の園内。

 

小石川御薬園は、1638、江戸で暮らす人々のための薬の材料となる植物(薬草)を育てる目的で第3代将軍徳川家光の時、江戸幕府が開園した薬草園です。

 

園内では、日本各地、さらには中国、韓国で採取した薬草や薬木が栽培されていました。

 

小石川養生所はどんなところだった?

小石川養生所は、小石川御薬園内の1000坪の土地に建てられ、40人が入院できる広さでした。

 

所長は小川笙船。本道(内科)・外科・眼科があり、診療は笙船のほか、林良適(はやしりょうてき)ら数人の医師が行いました。

 

受診対象となったのは、ものすごく貧乏な人独身で看病してくれる人がいない人家族みんなが病気の人でした。

 

小石川養生所を管理していた町奉行が入所希望者を審査し、入院の許可を出していました。

 

入院した人は、無料で治療が受けられるほか、食料や衣類など生活面でのサポートも受けられました。

 

実は、開所当初は、なかなか患者は集まりませんでした。それは、小石川養生所があまりにも好待遇で、“良い話すぎた”からだと考えられます。

 

江戸の庶民たちは、“幕府が貧乏人のために、無料の養生所をつくってくれるはずがない”“いい話にだまされて養生所に行けば、新しい薬を試されるにちがいない”など、半信半疑でなかなか足を運ぶ勇気がでなかったのかもしれません。

 

しかし、小石川養生所の存在が江戸庶民に浸透するにつれ、庶民たちの疑いや不安もなくなり、患者の数もどんどん増えていきました。

 

1727には入院定員を100名に増員することになりましたが、それでも入所待ちの患者たちがいたほどです。

 

江戸庶民からどれほど必要とされていた養生所だったのか想像できます。

 

小石川養生所のその後 

(東京大学内にある小石川植物園”旧小石川養生所” 出典:Wikipedia

 

 

小石川養生所の所長は、笙船の子孫が代々受け継ぎました。

 

そして、江戸から明治へと時代が変わり、明治政府が漢方を否定し、西洋医学を医療の主流としたことで、1868(明治元年)、漢方中心治療をしていた小石川養生所は廃止されました。

 

実にこの時、1722年の開所から140年以上もの月日が経っていました。

 

現在、小石川御薬園と小石川養生所のあった場所は、植物学の研究や教育を目的とする東京大学の教育実習施設になっています。

 

一般にも開放していて、「小石川植物園」の名で親しまれています。

 

まとめ

・小石川養生所は、1722年(享保7年)に小石川御薬園内につくられた、貧しい病人の治療を行う無料の医療施設。

・小石川養生所の設立は、町医者の小川笙船が目安箱に投書したのがきっかけ。

・小石川養生所の管理は町奉行が行っていた。

・小川笙船はテレビや映画の“赤ひげ先生”のモデルとなった人物。

・明治政府が西洋医学を主流としたことで、漢方中心の小石川養生所は1868年に廃止された。

・現在、小石川御薬園は東京大学の教育実習施設になり、小石川植物園として一般の人にも開放されている。




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