たびたび起こる飢饉により貧しい生活をしていた百姓。

 

さらに増税等を行う藩財政政策に対し、百姓はついに一揆を起こし、対抗していきました。

 

一揆の参加者には厳しい処罰もありうる中、命がけで行う『百姓一揆(ひゃくしょういっき)』とはどのようなものだったのか、今回、わかりやすく解説していきます。

 

百姓一揆とは?

(百姓 出典:Wikipedia

 

 

百姓一揆とは、江戸時代末に起こった、領主や役人に対しての嘆願運動(反乱)のことです。

 

1人で嘆願書を提出するものから、何万人と集まって行うもの、打毀を行うなど激しい行動にでるものなど、種類がありました。

 

百姓一揆が起こった背景と原因

①飢饉の発生「四大飢饉」

江戸時代末期は、立て続けに3つの大飢饉が発生してしまい、農作物が育たず、多くの餓死者が出てしまいました。

 

まず、1732年に天候不順により発生した「享保の飢饉」では、さらに長雨の影響で西日本一帯にイナゴが大量発生をし、大凶作となり、江戸では深刻なコメ不足となりました。

 

 

次に、1782年の10代将軍徳川家治の時に「天明の飢饉」が発生しました。

 

この天明の飢饉は、飢饉の中でももっとも被害が大きかったといわれています。

 

東北地方を中心とする冷害に加えて、1783年の浅間山の大噴火の火山灰による冷温が重なり、なんと約92万人もの死者がでたと言われています。

 

そして、1833年に天候不順と冷害・暴風雨により全国で「天保の飢饉」が発生しました。

 

一度、天候が改善したものの、再び1836年に冷害となり、米の価格が大幅に上がり、人々の生活は困窮しました。

 

 

②本百姓の分解

百姓たちは、貨幣経済の導入に翻弄され、貧困化する本百姓(田畑をもっている百姓)が出てきました。

 

江戸時代は、田畑の売買が禁止されており、質流れにより田畑の売買が行われていました。

 

その結果、地主になる人が出る一方で、小さい田畑を持つ本百姓や水呑百姓(田畑をもっていない、水しか飲めないような貧しい百姓)に転落する本百姓が増えました。

 

③藩専売制

江戸時代初期から土佐藩では紙の専売が行われていましたが、幕末にかけて、藩財政難の改善のために、さまざまな藩が特産品の専売を行い始めました。

 

諸藩は専売による利益を得るために、領民による自由な生産・売買を禁止したため、それまでその特産品の生産・流通にかかわっていた人々の生活が圧迫されるようになりました。

 

百姓一揆の内容

①一揆の形態

一揆では、越訴(おっそ)、強訴(ごうそ)、逃散(ちょうさん)、打毀(うちこわし)などを行いました。

 

一揆の内容

  • 越訴・・・本来の手続きによる申請ではなく、役人や領主などに嘆願すること。
  • 強訴・・・大きな集団を形成し、圧力をかけて要求すること。
  • 逃散・・・要求を通すため、権力の及ばない寺院や山に村全体で移動すること。
  • 打毀・・・家に押し入り、家財等を壊してまわること。

 

強訴や打毀では手荒なことも行いますが、一部を除き、一揆に参加している農民と領主との間で武力衝突が起こることはありませんでした。

 

そのため、防御として鎌や鍬を持って一揆を起こしていましたが、衣装は農民らしい簑笠のままでした。

 

②一揆の変遷

17世紀後半に発生した一揆の種類で、村役人などの代表者一人が年貢増徴等に反対し、領主に対して直訴を行うものを「代表越訴型一揆」といいます。

 

一揆の代表者は「義民」と呼ばれる、自身の生命や私財を投げ出してでも活動した者もいました。

 

有名なのは、1653年に佐倉藩(現千葉県)で起こった「佐倉惣五郎一揆」の佐倉惣五郎です。

 

 

(佐倉 惣五郎 出典:Wikipedia

 

 

藩主の重税の廃止を求めましたが、聞き入れられず、佐倉惣五郎は4代将軍徳川家綱に単身直訴を行いました。

 

直訴の結果、訴えは聞き入れられ領民は救われることとなりましたが、佐倉惣五郎一家は磔など死罪となってしまいました。

 

17世紀末からは、大規模で広範囲にわたる一揆であり、領主に対して年貢の減免や専売制の廃止を訴える「惣百姓一揆」が発生してきました。

 

特に一揆が藩全域で行われたものは「全藩一揆」と呼ばれており、有名な一揆として磐城平藩の「元文一揆」があります。

 

この一揆は、磐城平藩が新たな課税を行ったことに対して起こり、領民ら約2万人が21か条の嘆願書を示しながら、城下を占拠しました。

 

藩は嘆願を受け入れるといいながら、約束を破り要求を拒否。首謀者ら8名が死罪とされ、その他も永牢などの処罰が行われました。

 

最後に19世紀に発生した社会変革を求める民衆運動であり、貧しい農民による村役人や領主への強訴を「世直し一揆」といいます。

 

 

有名な一揆として三河の加茂郡で発生した「加茂一揆」があります。

 

加茂一揆は、凶作による物価高騰に対して、約240もの村から1万人以上の農民が集まり、物価引き下げを要求し、商人の家に打毀に入りました。

 

この一揆により、一時的ではありましたが、米価値下げが行われました。

 

百姓一揆のその後

①傘連判状(からかされんぱんじょう)

一揆の首謀者には、死罪や一家処罰の処分がされることが一般的でした。

 

そこで、首謀者が誰だかわからないように、現在の色紙への寄せ書きのように、嘆願書などに輪状に署名をしていきました。

 

傘連判状自体は、古くから使用されていましたが、百姓たちは「署名をした人はみな平等であること」や「首謀者をわからなくし、処罰を逃れること」という意味を込めて傘連判状を使用していました。

 

②大塩平八郎の乱

(大塩平八郎 出典:Wikipedia)

 

 

天保の飢饉に対し、江戸幕府はなにも救済措置を行いませんでした。

 

これに対し、大阪町奉行所の元与力(元幕府の役人)である大塩平八郎は苦しむ大阪の人々を救うべく弟子たちと乱を起こしました。(大塩平八郎の乱

 

 

乱自体は裏切り者がでたため、半日で鎮圧されてしまいました。

 

しかし、天下の大阪で、元幕府の役人が反乱を起こしたということは、諸藩の役人や幕府に不満をもつ農民たちに衝撃を与えました。

 

1838年に水戸藩主であった徳川斉昭は、11代将軍徳川家斉に提出した『戊戌封事』の中の「内憂外患」について、内憂として「加茂一揆」と「大塩の乱」の名前を出しています。

 

③明治維新後

維新新政府が次々に近代化政策を発表すると、それに反発する一揆(世直し一揆)が発生し、地租改正反対一揆血税一揆など個々の政策に関する一揆や、新政府に対する拒否からの一揆も起こるようになった。

 

 

また、このころになると、一揆の参加者は槍や鉄砲で武装をしており、警官を殺害する等過激な一揆運動が発生していました。

 

1875年に発生した西南戦争の中で起こった一揆が最後の百姓一揆と言われています。

 

 

その後一揆は、自由民権運動や小作騒動へと変貌していきました。

 

 

まとめ

 飢饉の発生により、農民の格差が出てきた。

 諸藩の財政も困窮し、農民に対する年貢増税が行われていた。

 不満をもつ農民が集まり、一揆を起こすようになった。

 農民は百姓一揆において、越訴・強訴・逃散・打毀を行い、領主に要求を通してもらおうとした。

 百姓一揆の中には「代表越訴型一揆」、「惣百姓一揆」、「世直し一揆」と時代によって違いがあった。

 嘆願が叶うこともあったが、ほとんどの首謀者は死罪となる命がけのものだった。

 明治時代になると、百姓一揆は自由民権運動や小作争議に姿を変えていった。




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