金銭トラブルについて当事者間での解決を促す法令は1661年・1685年・1702年にも出させていました。

 

しかし、今回は一番有名な徳川8代将軍吉宗時代の享保の改革として1719年に出された『相対済令』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

相対済令とは?

 

相対済令は、「あいたいすましれい」と読み、江戸時代に旗本・御家人の救済を目的とした法令のことです。

 

この相対済令は、旗本・御家人の借金を帳消しにして救済したというわけではありません。

 

享保の改革で財政再建を行っていた幕府は、裁判件数が多くパンクしそうだった奉行所(裁判所)の役人のため裁判を簡素化。仕事を減らす(救済)ために相対済令を発令しました。

 

つまり、金銭トラブルについての裁判を停止したのです。

 

相対済令が出された目的(理由)

①幕府財政の再建

当時、幕府・諸藩の収入は安定していましたが、経済の発展により支出が増加し、財政は困窮していました。

 

そのため、幕府や武士などは、札差・町人から借金をして生活をするようになっていました。

 

そこで、江戸幕府8代将軍徳川吉宗は、幕府建て直しのために、1716年の享保の改革で様々な政策を行っていきます。

 

そのうちの幕府建て直し政策の一つが相対済令でした。

 

 

②金銭問題

旗本らに多くのお金を貸していた札差は、主として旗本らの蔵米(役人の給料)をお金と交換する業務を行っており、裕福な者が多く、次第に金融業を始めるようになっていました。

 

札差は、お金を貸す際にとても高い金利(年利15%~18%)や多くの手数料を取って、利益を得ていました。

 

だんだんと札差は武士に対し無礼な態度をとったり、武士は高い利息が払えなくなり返済をしなかったりしたことから、金銭トラブルが多く発生していました。

 

③膨大な裁判件数

江戸時代の裁判は吟味筋(今の刑事事件)と出入筋(今の民事事件)とに分かれており、1718年の出入筋件数35,790件のうち、33,037件を金銭トラブルによる訴訟が占めていました。

 

しかし、1年で処理できたものは11,651件と約3分の1であり、それ以外は全て翌年の処理となってしまいました。

 

当時は出入筋の裁判を執り行うことは義務ではなく、本来吟味筋の裁判のみが奉行所の仕事でした。

 

相対済令の内容

①条文

相対済令は以下のような条文でした。

 

一、近年、金銀出入段々多く成り、評定所寄合の筋も此儀を専ら取扱い、公事訴訟は末に罷成、評定の本旨を失ひ候。借金銀・買懸り等の儀は、人々相対の上の事に候得ば、自今は三奉行所にて済口の取扱い致す間敷候。

出展『御触書寛保集成』

 

②出入筋の裁判の停止

「金銀出入段々多く成り、評定所寄合の筋も此儀を専ら取扱い、公事訴訟は末に罷成、評定の本旨を失ひ候。」とあるように、出入筋の裁判業務が多くなり、本来の公事(吟味筋)の裁判が手を付けられない状態となっている状況でした。

 

そこで幕府は相対済令を享保4年(1719年)に出し、「出入筋についての裁判を行いません。今後は裁判を申し立てずに、自分たちで話し合って解決してくださいね」と出入筋の裁判業務を停止しました。

 

そして、裁判業務を簡素化し、滞っていた吟味筋の裁判を終わらせてしまおうとしました。

 

③例外

しかし、相対済令が出されると、お金を借りていた旗本らの中に、「相対済令が出されたので、借金を踏み倒しても裁判を起こされず、処罰をされない」と勘違いした者が多くいました。

 

なので、幕府は相対済令を出した4日後に「自分勝手に返済をしないものは処罰します」と追加説明を行いました。

 

さらに、翌年にも「相対済令は借金を返さなくてよいものではありません。そのように考えるものがいるのであれば札差は裁判を申し立ててください」と再度借金がなくなるわけではないことノ説明をしました。

 

つまり、「相対済令を利用し、借金を踏み倒すこと」は例外として、裁判の対象とされていました。

 

他に、「利息による金銭トラブルではないもの」「宗教に対する寄付金についてのトラブル」についても、裁判の対象となっていました。

 

④棄捐令との違い

相対済令と似た政策に「棄捐令(きえんれい)」があります。棄捐令は1784年の寛政・天保の改革で出されたものです。

 

「旗本らの救済を図った政策」として、間違いやすいですが、二つの政策は全く違うものでした。

 

相対済令は上記で述べたように「金銭トラブルは裁判で取り扱わないから、自分たちで解決してね」というものでしたが、棄捐令は「旗本らが札差に借りているお金を帳消しして、今後借りるときは、金利引き下げてね」というものでした。

 

つまり、棄捐令では、札差に対する借金がなくなってしまったのでした。

 

ちなみに、帳消しになった借金総額は江戸幕府の年間支出と同じくらいであったとも言われています。

 

相対済令では裁判を申し立てられないだけで、借金は返済すべきものでした。

 

相対済令のその後の影響

①札差の対抗

返済をしなかった旗本・御家人に対し、貸主である札差は、黙って泣き寝入りをするはずはありませんでした。

 

旗本等の仕事終わりを江戸城前で待ち構えて「お金を返せ」と書いた旗をふりました。

 

それでも返済をしない旗本らに対しては、札差は自宅まで付いていき、旗本らの玄関前に座って、返済を迫っていました。

 

中には、わざとボロボロの着物を女性に着せて同情を誘い、返済を訴える札差もいたようです。

 

これを見た町奉行の大岡忠相は徳川吉宗に対して、「これら札差の行為は、武士の外対面を汚す方法なので、このようなやり方で返済を迫る札差を捕らえてほしい」と訴えましたが、吉宗は「そもそも返済をしない武士が悪いので、札差を捕らえることはできない」と訴えを却下しました。

 

②借金の踏み倒し

札差もいろいろな手を使い、借金を踏み倒させないように返済を迫っていましたが、やはり、多くの旗本らは借金の踏み倒しを行っていました。

 

また、経済が混乱したことにより、1729年に相対済令は廃止されました。

 

③公事方御定書の制定

相対済令は出入筋の裁判数を減らし、その間に公事(吟味筋)を処理しようと、出されましたが、徳川吉宗はさらに公事についての裁判処理を迅速に行おうと考え、公事裁判・刑罰の基準となる「公事方御定書」を1742年に制定しました。

 

これは、奉行所のみのマル秘文章という扱いでしたが、いろいろなところで写しが出回り、江戸幕府の成文法となりました。

 

まとめ

 8代将軍徳川吉宗のもと、享保の改革の政策として発令されたものだった。

 武士と札差の間でしばしば金銭トラブルが発生しており、奉行所に多くの裁判が申し立てられており、民事裁判については、ほとんどが金銭トラブルによるものだった。

 あまりの裁判件数の多さにより、裁判業務が停滞してしまったため、相対済令により、金銭トラブルについての裁判を行わないことした。

 棄捐令と違い、借金が帳消しになったわけではなかった。

 札差は「お金を返せ」と旗を振ったり、武士の自宅の前で居座ったりして返済を迫った。

 やはり、借金を踏み倒すものが多くいたことから、相対済令は廃止されてしまった。

 公事裁判の迅速化のため公事方御定書が制定された。




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