【協調外交とは】簡単にわかりやすく解説!!幣原外交や対義語「強硬外交」について

 

外交とは自国の国益を得るために外国との調整を図るものです。

 

目的は同じですが手段や方針は様々なものがあります。

 

今回はその中でも特に協調外交と呼ばれるものについて簡単にわかりやすく解説します。

 

協調外交とは?

 

協調外交とは、自国の利益を追求する過程において、他国と協力したり話し合いによって同じ方向性を歩んでいく外交を意味します。

 

日本史における協調外交とは、第一次世界大戦後1920年代中盤~30年代始めにかけての幣原喜重郎による幣原外交を指します。

 

ただし、協調外交という言葉自体の意味は上述のように他国と話し合いによって問題の解決をはかろうとする手法であり、19世紀初めのナポレオン戦争後のヨーロッパ協調やイギリスがナチスドイツに対して当初とっていた融和政策も協調外交の一種と言えるでしょう。

 

今回は具体的な協調外交の例として幣原外交についてみていくことにします。

 

協調外交の代表例「幣原外交」

(幣原喜重郎 出典:Wikipedia)

①幣原喜重郎

幣原喜重郎は大阪生まれの外交官です。

 

駐米大使などを経験したあと、1924(大正13)加藤高明内閣で初めて外務大臣に就任します。

 

その後、第一次と第二次若槻礼次郎内閣濱口内閣で外務大臣を歴任しました。

 

途中政権交代があったため、2年ほどのブランクがありますが、1931(昭和6)まで外務大臣を務めたことになります。

 

第二次世界大戦後、彼は総理大臣にもなりました。それは外務大臣時代に英米と協調した外交を行った経歴があったためです。

 

彼の外交方針は常に英米との協調を図るというものでした。

 

1920年代の国際状況

1920年代はいわゆる戦間期と呼ばれる時代です。これは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に当たることに由来します。

 

ヨーロッパのほとんどが戦場になったことにより第一次世界大戦は負けた国だけではなく、勝った国も甚大な被害を受けることになりました。

 

もう二度とこうしたことは起こしてはいけない、ということで武力ではなく話し合いで問題を解決しようという動きが起きたのです。

 

こうして出来上がったものが国際連盟でした。

 

 

これと1919年に結ばれたベルサイユ条約など第一次世界大戦における同盟国側との条約によって秩序が保たれていたので、この時代の国際秩序をベルサイユ体制と言います。

 

また、1921年にはワシントン会議が開かれます。幣原は外務省の全権委員としてこの会議に参加していました。

 

アメリカが主催するこの会議は日本の封じ込めが目的でした。日本の勢力伸長、特に中国に対するそれがアメリカを刺激したのです。

 

アメリカもまた中国に勢力を伸ばしたいと考えていました。

 

その結果、日本は日英同盟の廃止や主力艦の保有率で英米比6割に制限されるなど、アメリカの希望を受け入れることになりました。

 

また、日英同盟も発展的解消と称して廃止され、日英米仏の4国による四カ国条約が結ばれました。

 

さらに中国の主権尊重と門戸開放・機会均等を謳った9カ国条約も結ばれます。こうしてできた体制をワシントン体制と言います。

 

従って幣原が外相になったときの国際関係はこのベルサイユ体制とワシントン体制の二本柱で成り立っていました。

 

どちらも第一次世界大戦を教訓にした国際協調体制でした。

 

幣原外交の成功と挫折

1924年(大正13年)に加藤高明が首相に就任します。

 

1926年(大正15年)に加藤首相が病死後、若槻礼次郎が首相を引き継ぎますが、幣原はその2代の内閣において外務大臣として活躍しました。

 

彼の外交方針はベルサイユ・ワシントン体制下において米英との協調をはかり、中国の内政へは不干渉とするものでした。

 

それを通して中国市場の拡大と満州に持っている日本の権益を維持することを目的としていました。

 

やがて起きた中国での内戦で不干渉方針を取ったこと、また中国の関税自主権を尊重して低率の協定関税にとどめたことや結果的には開催されませんでしたが、中国の関税自主権回復のための会議に協力的だったことから、中国を始め国際的な信用を得ることに成功します。

 

合わせてソ連との国交も結ぶことができました。

 

しかし、当時の中国は軍閥が割拠し、しばしば揉め事が起こっていました。

 

これに対して幣原は常に不干渉方針を取りますが、それに対して軍部や枢密院が軟弱外交と批難するようになります。

 

蒋介石北伐を始め南京を占領すると日本人を始め、各国の領事館が中国軍に襲われるという事件が起きました。

 

 

現地日本軍は不抵抗方針で対応し、日本人居留員は暴行や略奪を受けました。同じような目にあった米英は蒋介石に最後通牒を出すことを検討しますが、幣原が説得しこれをとりやめさせます。

 

こうした幣原の姿勢は蒋介石が自発的に処罰や賠償、謝罪をすることで問題を解決することが得策だと考えたからです。

 

しかし彼のそのような姿勢は日本国民からも軟弱外交と反発を受け、また中国人も日本人を甘く見る原因になってしまいました。

 

また、この問題に対して米英との対応策が違ったことは、英米が日本への不信感を持つきっかけにもなりました。

 

その結果、米英は対中接近をはかります。米英が中国との関係を深めることは、昭和に入ってからの中国を巡る問題において英米が中国側に立つ理由ともなり、日中の対立が日本と英米との対立に結びつく要因にもなりました。

 

こうして幣原外交が批判を受ける中、若槻内閣が金融恐慌を巡る対応に失敗し瓦解すると幣原も外相を辞めることになり、幣原外交は終わります。

 

 

協調外交の対義語「強硬外交」

強硬外交とは

強硬外交も協調外交と同じく、一般的な名詞として存在する言葉です。

 

こちらは国益を実現する手段として、時には軍事力の行使も辞さないという覚悟と姿勢を持って積極的に自国の利益になることを主張していく外交を指します。

 

日本史上の用語としては、幣原外交の次に行われた、田中義一首相による田中外交のことが強硬外交、あるいは積極外交と呼ばれるものです。

 

田中外交

若槻内閣が倒れたあと、首相に就任したのは田中義一でした。

 

彼はもともと陸軍の軍人から政治家に転身した人物で明治維新以降の長州閥の流れもくんでいました。田中義一内閣において彼は外相も兼任し、難題となっていた中国問題に対処します。

 

首相就任後2ヶ月して、彼は対中国問題を話し合うために関係者を集めて東方会議を開催します。

 

そこで決められた方針は中国の内政には不干渉方針を取りますが、日本人の保護や権益を守るためには武力行使も行うというものでした。

 

場合によっては米英との対立が激化する可能性もありますが、それも覚悟の上で取られた方針でした。

 

この結果、山東出兵済南事件張作霖爆殺事件と中国に対して強硬な政策が取られ続けることになります。

 

最初のうちは米英も自国民の保護にもつながるので好意的に捉えていましたが、やがて日本の中国に対する野心を感じ、批難するようになりました。中国でも反日・抗日運動が激化する結果になります。

 

田中義一内閣は張作霖爆殺事件の責任を取る形で総辞職。変わって濱口雄幸が組閣し再び幣原が外相として復帰することになりました。

 

二度目の幣原外交

 

1929年に幣原は外相として返り咲きますが、前回と比べると中国を巡る状況は悪化していました。

 

激化する反日感情、米英の日本不信、そして満州領有の野心を持った陸軍です。

 

また、世界恐慌の発生により、国際社会においても他国との協調よりも自国のことを第一に考える風潮が広まっていました。

 

そんな中、日中関税協定やロンドン海軍軍縮条約の締結など幣原らしい結果を出しますが、特に軍縮条約は海軍や右翼の反発を招き濱口首相が狙撃され負傷します。

 

変わった第二次若槻内閣でも引き続き幣原は外相の任に就きますが、今度は満州事変が勃発。

 

 

これは現地の陸軍が独断で始めた事件ですが、軍部が政府の言うことを聞かなくなっていったのです。

 

もはや軍部の圧力の前に、幣原の外交は通用しなくなっていったのです。こうして幣原外交は終わりを迎えます。

 

まとめ

 協調外交とは他国と話し合いによって利害を調整していく外交で幣原喜重郎による幣原外交が代表例。

 幣原外交ではベルサイユ・ワシントン体制を尊重し、米英との衝突回避と対中内政不干渉方針がとられた。

 蒋介石の北伐により日本人居留民が襲われるが幣原は非抵抗主義をとった。

 その結果日本人が被害にあい、国民や軍部から批難され、米英の不信にもつながった。

 変わった田中義一が武力手段もいとわない強硬外交に出るも中国の反日感情の激化や米英の反発につながった。

 外相に返り咲いた幣原は協調外交を再開するもののそれが通用する時代は終わっていた。