ドラマや歴史番組などで良く取り上げられている赤穂浪士。

 

そのため、赤穂浪士という名前は、いろんなところで聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

この赤穂浪士が主君のために討ち入りした「赤穂事件(あこうじけん)」こそが、かの有名な「忠臣蔵」なのです!

 

では、一体どうして主君を討ち入りする必要があったのでしょうか?

 

赤穂事件の背景や経過、その後などを含めて、簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

赤穂浪士とは?

(赤穂城 高麗門二層櫓 出典:Wikipedia

 

赤穂浪士とは、播磨赤穂藩(はりまあこうはん)に属していた、藩士のことを指します。

 

私たちが知っている赤穂浪士というのは、その中でも、主人のために仇討を行った大石内蔵助(おおうちくらのすけ)をはじめとする、47名の赤穂藩士のことを言います。

 

赤穂藩は、赤穂事件のきっかけとなる事件によって、お家取り潰しとなってしまいます。そのため、藩士ではなく、浪士という言い方になっています。

赤穂事件が起こった背景

赤穂事件とは、1702年12月14日の深夜に起きた討ち入り事件のことです。

 

事の発端はその前の1702年3月14日、江戸城本丸にある”松の廊下”で起きた切り付け沙汰です。

 

この日は、幕府にとって大切な日でもありました。何故かというと、朝廷からの使者(勅使)を返礼する儀式が行われていたからです。

 

その勅使の接待役が、赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)という赤穂浪士たちの主君なのです。

 

浅野内匠頭が、儀式の指導役であった吉良上野介を切り付けるという事件が発生してしまうのです。

 

吉良上野介は深手を負うことはなく軽傷ですんだものの、このことに激怒した人物がいました。それは、徳川綱吉です。

 

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(徳川綱吉 出典:Wikipedia)

 

江戸時代の慣習として、このような場合は「喧嘩両成敗」で問題ないはずなところを、綱吉が与えたのは、浅野内匠頭への即日の切腹

 

そして、吉良上野介はというと、おとがめなしという非常に不平等なものだったのです。

 

この事件後、赤穂藩は取りつぶしにあってしまいます。

 

赤穂事件の詳細「吉良上野介邸宅への討入!」

(吉良邸討ち入り 出典:Wikipedia)

 

赤穂藩取り潰しという結果に納得のいかなかった赤穂藩の旧藩士たちは、藩主の無念を晴らすために、赤穂藩のお家取り潰し撤回を求めて運動を行いますが、思うようにいきませんでした。

 

そのため、主君の仇討として吉良上野介を打ち取ることを決め、水面下で準備を進めます。これが、赤穂事件のスタートです。

 

そして、浅野内匠頭の命日でもあった1702年12月14日の深夜、赤穂浪士を率いる大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を筆頭にした47人の藩士は、吉良邸に討ち入り!主君の仇討に乗り込むのです。

 

吉良上野介側の被害はかなり甚大で、屋敷にいた約150人のうち45人が死傷。一方の赤穂浪士側は2人が負傷したのみとなっています。

 

結果、吉良上野介の首を取り、泉岳寺にある浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の打ち取った首を供えた、というものです。

 

これが、赤穂事件の一連の流れとなります。

 

どうして浅野内匠頭は吉良上野介を切りつけた?諸説がある

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(浅野内匠頭 出典:Wikipedia)

 

浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけた理由ですが、動機は不明

 

ですが、諸説あります。

 

事件後に残されている記録によれば、突然、浅野内匠頭が”私的な恨み”を理由に切りかかったとされています。

 

しかし、吉良上野介の取り調べ記録も残っており、そこには「恨まれる覚えはない」という記述があります。

 

そのため、真実は浅野内匠頭しか知らないということになります。

 

とはいえ、吉良上野介は意図的に浅野内匠頭を困らせるなどといった意地悪を働いていたという記録もあります。吉良上野介が意地悪をするたびに、赤穂藩士が動いていたというのですから、恨まれてもしょうがない気がしますね。

 

では、その後の赤穂浪士たちの採決はどうなったのでしょうか?

 

赤穂事件後の赤穂浪士たちのその後

 

赤穂事件での赤穂浪士達への採決は、賛否両論に分かれることとなりました。

 

世論としては助命の声が大きく、幕府もどうするか相当悩んだようです。

 

しかし、この赤穂浪士達の仇討は、「徒党を組んで暴挙に至った復讐」と判断されてしまい、大石内蔵助以下46名が全員切腹という悲しい運命をたどることになります。

 

この判断を下したのは、荻生徂徠(おぎゅうそらい)という儒学者なんです!まさか、こんなところで繋がってくるとは思いもしないですよね。

 

赤穂浪士は47人じゃなかったの?

 

お気づきのあなたはスゴイ!

 

実は1名足りない人物がいて、最終的に切腹したのは46名の赤穂浪士となるのです。

 

その浪士の名前は寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)という人物。

 

彼の行方はわからず、その理由も残念ながらいまだにわかっていません。

 

赤穂浪士に生き残りはいたのか?

 

赤穂浪士たちは、立派に主君である浅野内匠頭に対して忠義を立てて、今でもいろんな形で語られています。

 

そんな赤穂浪士に、生き残りはいたのでしょうか?

 

実は、赤穂浪士の中でも討ち入りに参加せずにいた人物がほとんど。

 

討ち入りに参加した大石内蔵助以下47名ですが、実際の赤穂藩には当時300人余りの家臣がいたとされています。

 

そう考えると、赤穂事件で討ち入りを果たしたのは、全体のわずかでしかなかったことも、オドロキですよね。

 

赤穂浪士のお墓はあるの?

(浅野内匠頭が埋葬された泉岳寺 出典:Wikipedia

 

討ち入りし、切腹となった赤穂浪士46名は、その後どうなったのでしょうか?

 

赤穂浪士46名は、主君・浅野内匠頭とおなじ泉岳寺(東京都港区)にお墓があり、今では、国の史跡として、多くの観光客や忠臣蔵ファンが訪れています。

 

忠義を尽くした主君と同じ場所に祭られているなんて、ファンからしたら涙ものですよね。

赤穂浪士の子供立ちはどうなった?子孫はいるの?

 

昔は、犯罪者の罪は父母兄弟、妻子にまで及びましたが、今回の赤穂浪士の場合はどうだったのでしょうか?

 

徳川綱吉の時代にもなると、犯罪者に対する三族に及ぶ連罰はゆるみ、15歳以上の男子の遺児だけが罰せられるだけにとどまりました。

 

赤穂事件後の2月4日、幕府は赤穂浪士の遺児19名に対して、島流しを命じました。

 

しかし、赤穂浪士の遺児たちは一部15歳未満の者もいたことから、その者たちについては15歳になってから刑を行うとされ、親類のもとへ預けられるという形になりました。

 

15歳以下は、出家すれば島流しを免除されるという免除もあったようで、大石内蔵助の次男などは僧侶となって免罪という形になっているようです。

 

島流しを経て、無事に赦免となったのは3名です

 

このことから、赤穂浪士の子孫は、今でもいらっしゃるようです。

 

なんでも、子孫の会というものまで発足しているようですので、現代に赤穂浪士47名の子孫が集結する日も近そう?!

 

まとめ

 赤穂浪士は、播磨赤穂藩に所属する藩士のことを指す。主君は浅野内匠頭。

 赤穂事件は、浅野内匠頭が江戸城本丸内の「松の廊下」で吉良上野介を切り付けた事件に端を発す。

 幕府での大事な儀式の最中に起きた、松の廊下切り付け事件によって、当時の将軍徳川綱吉が激怒。浅野内匠頭に切腹を命じるが、吉良上野介は軽傷で済んだ上におとがめなしだった。

 最終的に、赤穂藩の取り潰しまで決まる。赤穂藩士はこのことに不服を申し立てたが、撤回はされず。

 大石内蔵助ら47名は水面下で用意を進め、吉良上野介の邸宅に討ち入りを決行、仇を返す。

 主君に対しての仇討行為のため、世間からも助命を求める声があったが、赤穂浪士46名の切腹が決定する。儒学者である荻生徂徠が切腹を提案したとされている。

 赤穂浪士47名の遺児に対しても島流し刑が決まるが、半分は出家などで難を逃れている。また、島流しに遭った4名中3名も赦免、生還しており、今でも赤穂浪士の子孫はいる。

 浅野内匠頭と赤穂浪士46名は現在、東京都港区にある泉岳寺に祭られている。

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