【承平天慶の乱とは】簡単にわかりやすく解説!!反乱が起こった背景や経過・その後など

 

承平天慶の乱とは、平将門の乱と藤原純友の乱のことを指します。

 

今回は、そんな2つの反乱『承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

承平天慶の乱とは?

 

承平天慶の乱とは、平安時代中期に同時期に起こった平将門の乱と藤原純友の乱を合わせた一連の反乱のことを言います。

 

関東で勢力をふるっていた平将門は、「新皇」を名乗ったことにより、朝廷から反逆者として討伐され、一方、瀬戸内海で兵をあげた藤原純友は海賊討伐の恩賞を不服として乱をおこし、討伐されてしまいました。

 

この同時期に発生した反乱について、朝廷では「2人が共謀しているのではないか?」と恐れられましたが、そうではありませんでした。

 

2つの反乱は当時の貴族社会の中、武士台頭の契機となりました。

 

承平天慶の乱が起こった背景

①武士のおこり

9~10世紀は、地方の治安が悪化し、国司による略奪や所領をめぐる争いが勃発していました。

 

それに対抗するため、地方豪族や農民は武装するようになり、貴族から依頼され、地方の治安維持を担当するようになります。

 

朝廷でも宮中の警備に「滝口の武士」を、諸国の盗賊・謀反人の制定、治安維持のために「押領使・追捕使」を登用するようになりました。

 

そして10世紀以降になると武士たちは軍団を作り、軍団トップを「棟梁」として武家が形成されることとなります。

 

特に有力なものとして、源経基を祖とする「清和源氏」、平高望を祖とする「桓武平氏」が誕生していきました。

 

平将門の乱の発生から終わりまで

(平将門 出典:Wikipedia

①親族争い

反乱以前、平将門は桓武平氏の血を引いていましたが、京で藤原忠平に仕えていました。

 

しかし、平将門の父である平良持が早くに亡くなったことにより、平将門が東国へ帰ると父の土地はおじたちに奪われてしまっています。

 

このことから、平将門とおじ(平良持の兄弟)の間で領地をめぐる親族争いが発生します。

 

先に、攻撃を仕掛けたのはおじたちでした。平国香(最年長者)は平将門を待ち伏せして襲いましたが、失敗。逆に平将門に追い詰められ、殺されてしまいます。

 

翌年には、ほかのおじ(平良兼と平良正)も軍勢を率いて平将門に向ってきましたが、平将門はこれも返り討ちにしてしまいました。

 

これにより平将門は朝廷に訴えられてしまいましたが、平将門は軽い刑となり。恩赦により釈放。朝廷内に平将門の武勇伝が知れ渡ることとなりました。

 

②仲介役「平将門」

武蔵国では郡司の武蔵武芝と受領の興代王が不仲となっており、その仲介を関東で大きな影響力をもつ平将門が引き受けることとなりました。

 

平将門は、武蔵武芝と興代王と部下の源経基と一緒に酒を飲みかわし、和解を進めようとします。

 

しかし、過激派が源経基を殺害しようとし、平将門は首謀者と勘違いをされてしまいました。

 

源経基は平将門の謀反人であると朝廷に訴え、平将門は朝廷から警戒されるようになりますが、平将門は国府の証明書を送り、なんとか疑いを晴らします。

 

しかし、今度は常陸国で土地所有者(藤原玄明)と受領の間で争いが起こります。

 

藤原玄明は受領と不仲で租税を納めておらず、乱暴を働いたため追捕令が出ており、平将門に助けを求めてきました。

 

平将門は藤原玄明をかくまい、受領との争いに発展。受領は国府へと逃げましたが、平将門は国府を包囲し、勝利を収めます。

 

③平将門の乱勃発

平将門軍は国府周辺で略奪や乱暴を働きます。

 

勢いにのった平将門は関東全域を支配下に置き、巫女からの御告げがあったとして、自らを「新皇」と称するようになりました。

 

「新皇」と名乗ることは、もちろん、朝廷(すなわち天皇)に対する反逆とみなされ、京では、平貞盛と押領使の藤原秀郷率いる平将門討伐軍が集められました。

 

平将門軍は兵が集まらず少数でしたが、風を読む戦法により、大群の討伐軍に対抗していました。

 

しかし、風向きが変わったことにより陣地へ引き返す平将門に矢が刺さり、平将門は討死してしまいます。

 

こうして、940年に平将門の乱は終わりを迎えました。

 

この一連の戦いにおいて、平将門の乱とされるのは国府襲撃(939)以後であり、それ以前の平将門の戦いは私的な争いとみられています。

 

藤原純友の乱の発生から終わりまで

(藤原純友 出典:Wikipedia

①藤原純友の海賊討伐

平将門の乱と同時期に、瀬戸内海では1000艘の海賊がおり、窃盗や殺人など事件が起こっていました。

 

そこで、海賊討伐のために藤原純友が伊予国に派遣されました。

 

一説によると、藤原純友は海賊を討伐するどころか、支配下におき、自身がトップになったとも言われています。

 

藤原純友は海賊討伐に対する恩賞が不十分でないことに不満をもっていたとともに、海賊の多くは都落ちした中級官人たちであり、ともに朝廷へ不満があったことから、仲間になりました。

 

②藤原純友の乱

939年に藤原純友は淡路島の武器庫を襲い、京に向っていましたが、平将門が討たれたとの知らせを聞くと引き返していきました。

 

朝廷は、東国の平将門の乱を制圧したため、西国の藤原純友の討伐に集中することができるようになり、941年に追捕使の小野好古と源経基率いる討伐軍は藤原純友の討伐へ向かいます。

 

これに対し、藤原純友は大宰府を占拠するなど応戦をしましたが、藤原純友は伊予に潜んでいるところを捕らえられ、その後獄中にて亡くなりました。

 

こうして藤原純友の乱は終結しました。

 

承平天慶の乱のその後

①武士の活躍

平将門の乱、藤原純友の乱の後も、地方武士による反乱が続きました。

 

1028年に「平忠常の乱」1051年に「前九年合戦」1083年に「後三年合戦」が発生します。

 

平忠常の乱では、押領使であった平忠常の反乱を源頼信が制圧。

 

これにより、関東における平氏の影響力は少なくなり、代わりに源氏の東国進出のきっかけとなりました。

 

さらに、前九年合戦では豪族安倍氏の反乱を源頼義が豪族清原氏とともに制圧したことで、東国における源氏の勢力は確立されます。

 

また、後三年合戦でも源氏である源義家が藤原清衡を援助し、制圧しました。

 

ほかにも1019年の刀伊族が北九州を襲撃した「刀伊の入冦」では、藤原隆家が九州の武士を率いて撃退しました。

 

このように、武士の不満により反乱が起こること、反乱鎮圧には武士の力を借りないといけないことが明らかになったのです。

 

②平将門の怨霊化

(相馬の古内裏 出典:Wikipedia)

 

 

平将門の首は平安京に運ばれ、さらし首となり、突如首が武蔵国(東京都千代田区)まで飛んだとされています。

(※現在、その場所には平将門の首塚が建っています)

 

鎌倉時代には、その地では天変地異があると平将門の祟りだと祀られ、戦国時代には戦勝祈願の神とさたのです。

 

しかし、明治以降、首塚の調査や撤去しようとすると死者が出るようになり、平将門は、崇徳天皇・菅原道真とともに三大怨霊と言われるようになりました。

 

まとめ

 平将門の乱と藤原純友の乱を合わせて、そのときの年号から承平天慶の乱と呼ばれている。

 平将門は親族争いや受領とのあらそいに巻き込まれたことにより、乱を起こしてしまった。

 平将門が「新皇」と名乗ったことに対し、朝廷への反逆者とみなされた。

 藤原純友は、海賊討伐に対する恩賞が不満で、反乱を起こした。

 同時期に起こった反乱だが、ともに共謀して反乱を起こしたわけではなかった。

 承平天慶の乱により、貴族社会の中での武士の地位が大きくなり、次の武士の時代へとつながっていくことになった。