【方広寺鐘銘事件とは】簡単にわかりやすく解説!!背景や内容・その後など

 

江戸時代の始まりとなる1600年の関ヶ原の戦いにより、豊臣側の石田三成徳川家康との間で決着がつきました。

 

しかし、豊臣側の代表は石田三成であり、豊臣の軍勢はまだ残っています。

 

そして豊臣の影響力は秀吉が居なくなってもなお大阪を中心に強く残っていました。

 

そこで、徳川が考えた最大の言いがかりと言える方広寺鐘名事件が起きました。

 

今回は、この『方広寺鐘名事件』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

方広寺鐘名事件とは

(方広寺の梵鐘)

 

 

方広寺鐘名事件とは、1614年(慶長19年)に方広寺の梵鐘に刻まれた文字に対して徳川家康が激怒する事件のことです。

 

豊臣秀忠が方広寺の大仏を鋳造した際に合わせて作った梵鐘(ぼんしょう:大きな鐘のこと)に「君臣豊楽」「国家安康」という文字が彫られます。

 

徳川家康は、これが家康の文字を引き裂き呪いの文字だと激怒しました。

 

この事件をきっかけに大阪の陣が勃発。豊臣家は滅びることになります

 

ここからはその事件の背景・内容など順を追って解説していきます。

 

方広寺鐘名事件の背景

①豊臣秀吉による方広寺大仏造立

豊臣秀吉は京都の方広寺に日本一高い大仏を立てようとして実際に造りました。

 

しかし、秀吉の立てた大仏は地震で倒壊してしまい、その後再建されることのないまま秀吉は亡くなってしまいます。

 

関ヶ原の戦い

秀吉が亡くなったあと、次の天下を継ぐ者として1600年に天下分け目の戦いと言われている関ヶ原の戦いが起きます。

 

東軍が石田三成率いる豊臣秀頼を天下人とする目的のために立ち上がった軍勢、西軍は徳川家康を中心とした徳川家が天下を握るために組織された軍勢です。

 

(豊臣秀頼 出典:Wikipedia

 

 

最初の段階では石田三成優勢かとみられていましたが、徳川家康の巧みな交渉により石田三成側の兵が裏切ることとなり、石田三成は負けてしまいます。

 

関ヶ原の戦いの後

関ヶ原の戦いの後も豊臣を頼る大名は多く、特に大阪城周辺の大名は豊臣を頼っていました。

 

関ヶ原の戦いの後も豊臣秀頼と淀殿は生きていたからです。

 

そして、豊臣も徳川も力を持っていた状態が10年近く続いていた時に方広寺鐘名事件は起こります。

 

徳川家康は、豊臣秀吉が権力を持っていることが許せず、何とかしたいと考えていたのです。

 

方広寺鐘名事件の内容

(明治初年の梵鐘 画像引用元

 

豊臣とも上手く協調していく構えを取っていた徳川は、亡くなった秀吉の意志を継ぎ、方広寺の大仏を再建することを秀頼に提案をします。

 

そして、秀頼もこれに賛同し、方広寺の大仏を再建していきます。

 

最初は家康も諸大名に費用の負担を促し、大工の派遣をおこなうなど、大仏再建に協力をしていきます。

 

しかし、同時期に作ることになった梵鐘が問題でした。

 

2代目の大仏造立の総奉行をおこなっていた片桐且元は仕上げとして梵鐘の銘文を入れることにしました。

 

この内容が最初にもお話をした「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽(くんしほうらく)」という文字でした。

 

(国家安康と書かれた梵鐘 出典:Wikipedia) 

 

 

この文字に対して徳川家康は、家康という文字の間に安という文字を入れて家康を引き裂いていると激昂しました。

 

そして、一方の君臣豊楽の方では豊臣はくっついており、豊臣家の繁栄を祈願しているものと判断します。

 

この文字については、林羅山にも徳川家康は解読を依頼しました。

 

林羅山は、家康の主張は正しいと断定し、家康は激怒することになるのです。

 

これらの銘文は徳川家を呪うものであると考え、大仏開眼の行事を引き延ばしました。

 

そして、これを機に秀頼を徳川の臣従にしようとしましたが、豊臣方は言いがかりであることに硬化な態度を取ったため大坂の陣に追い込みました。

 

これらの動きを方広寺鐘名事件と言います。

 

 

方広寺鐘名事件のその後

(淀殿 出典:Wikipedia

①片桐且元の交渉

方広寺鐘名事件の後、淀殿が直接家康の元を訪れて事情を説明するなどして一度、徳川家康はこの事件を許したと言われています。

 

しかし、交渉を請け負った片桐且元は、さらなる関係修復のために豊臣秀頼と淀殿に次の内容を進言しました。

片桐且元の提案

・秀頼が江戸に住む

・淀殿を江戸に人質として置く

・秀頼が大阪城を退去する

 

これらの条件をのむことができるわけもなく、豊臣側は激怒します。

 

そして、これらの内容を提示してきた片桐は徳川と内通していると疑いの目を向けるのです。

 

片桐且元の裏切り

(片桐且元 出典:Wikipedia

 

 

方広寺鐘名事件の結果、豊臣家に仕え、大仏建造の総監督を務めていた片桐は豊臣からの信頼を無くしてしまいます。

 

その結果、片桐は恩義ある豊臣家から離れ徳川家康の元を頼ることにするのです。

 

以前から徳川家康は片桐の能力を評価していたようで、声をかけていたことも背景にはあります。

 

片桐は、徳川からの信頼を得るために大阪城の機密情報を全て話してしまうのです。

 

機密情報とは、淀殿が居る部屋や秀頼が居る部屋の場所などです。

 

片桐且元への襲撃と大阪の陣

徳川と内通していると疑われた片桐は豊臣側の刺客により襲撃を受けます。

 

その知らせを受けて徳川は、戦いの意思表示であるとして、大阪の陣が始まるのです。

 

大阪の陣を覚悟していた豊臣側は、真田幸村や、毛利勝永、後藤又兵衛、長宗我部盛親などの浪人を招き入れて準備をします。

 

これにより、大阪の陣が幕を開けるのです。

 

大坂夏の陣では、大阪城に大砲が撃ち込まれていますが、これは淀殿の部屋を狙ったと言われています。

 

このように、片桐から重要な情報を得ていた徳川は有利に展開して豊臣家を滅ぼすことになりました。

 

方広寺鐘名事件は言いがかり?

 

 

方広寺鐘名事件に関しては諸説あります。

 

最初から徳川家康が豊臣家を滅ぼすために計画をしていたという説が今までの定説でした。

 

しかし、最近では少し変わった見方が定説になりつつあります。

 

それは、徳川の陰謀では無く、純粋に豊臣側の落ち度ではなかったのかということです。

 

その根拠としては一度徳川家康がこの事件を許していることです。

 

最初から言いがかりをつけるつもりであったならば許すことは無かったはずです。

 

そのため、現在では方広寺鐘名事件は徳川の陰謀では無く、豊臣の落ち度という説が有力なのです。

 

まとめ

・方広寺鐘名事件とは、方広寺の梵鐘に刻まれた文字に対して徳川家康が激怒する事件です。

・梵鐘に書かれた文字は「国家安康」「君臣豊楽」となっており、家康の名前を引き裂き、豊臣の名前はつながっているという徳川を呪う文字であったとされていました。

・方広寺鐘名事件に関して徳川家康が豊臣家を滅ぼすための陰謀であったという説と、陰謀では無く豊臣家の落ち度であったという説と2通り存在しています。

・方広寺鐘名事件の結果、大阪の陣が勃発し、豊臣家は滅びることになります。