五代目将軍・徳川綱吉の治世下にあった元禄時代には、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉をはじめとする多くの文化人が活躍したほか、農業の分野でも革新がありました。
江戸時代を代表する農書『農業全書』の誕生です。
今回は、『農業全書(のうぎょうぜんしょ)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
農業全書とは?
農業全書とは、江戸前期の農学者・宮崎安貞が書いた農書です。
安貞自身の諸国旅行での見聞や中国の農書についての知識、自身の農業体験に基づき、稲をはじめ148種類の作物に関する農業技術を体系的に解説しています。
それ以前の農書は写本としてそれぞれの地方限定で広まるのが一般的でしたが、本書は木版本として刊行され、広く世間に流布しました。
これ以後の農書に大きな影響を与えたほか、本書自体も明治時代中期まで再版され続け、多くの人々に読まれました。
農業全書の内容
(農政全書, 第一巻より 出典:Wikipedia)
①著作の構成
『農業全書』は全11巻から構成されています。第1巻は総論で、耕作・種子・土壌・節季・耕耘・施肥・水利・山林など農作業全般に対する農民の心得を述べています。
第2巻~第10巻は個々の作物に関する各論です。
全148種類の作物を・・・
✔ 五穀(主食となる5種類の穀物)
✔ 菜、山野菜、三草(染物等に使える3種類の草)
✔ 四木(茶・桑・漆・こうぞの4種類の木)
✔ 菓木、諸木、生類養方、薬種(薬の材料となるもの)
に分類し、それぞれの作物の特徴、畑の耕し方、肥料のやり方、成育の仕方を詳しく記しています。
また、特産地がある作物については、その地域における耕作の仕方も紹介しています。
第11巻は校閲者の貝原楽軒が書いた付録です。第10巻までの内容に対する補足を記した上で、勧農(農業を奨励すること)について論じています。
以上の全11巻に、貝原益軒の序文と、貝原好古の跋文(後書き)が付いています。
ちなみに、貝原益軒は江戸前期・中期の儒学者、本草学者(薬学者)で、貝原楽軒の弟です。貝原好古は楽軒の息子で、益軒の養子になった人物です。
②著作の特色
本書は、特定の地方の農業に役立つ農書としてではなく、風土の違いを超えて日本全国の農業に役立つ農書として書かれました。
その際、題材となったのは、安貞が近畿地方を中心に全国を旅行して見聞きした先進的な農業技術、親交のあった貝原益軒の本草学(薬学)や明(中国)の農書『農政全書』に加えて、安貞自身の40年以上にわたる農業経験でした。
そのため、本書の記述は詳細かつ体系的です。日本初の体系的な農書と言われることもあるくらいです。
それに加えて、刊行の上でも特色がありました。
本書は益軒の後援を受けて、1697年に京都の書堂柳枝軒から刊行されていますが、木版本として世に出ています。
本書以前にも、『清良記』『会津農書』『百姓伝記』など多くの農書が書かれていましたが、それらはすべて写本として特定の地域内に出回っていただけでした。
それに対して、木版本として印刷された本書は、その後何度も再版を重ねることで、日本全国に広まりました。
こうした特色により、これ以後の農書に大きな影響を与え、1700年前後の農書ブームの火付け役になったほか、本書自体も明治時代中期まで再版され続け、多くの読者を得てきました。
農業全書の著者「宮崎安貞」について
(宮崎安貞の書斎 出典:Wikipedia)
『農業全書』の著者は、江戸前期の農学者である宮崎安貞です。
安貞は大蔵永常、佐藤信淵と並んで、明治以前の日本の三大農学者の一人として数えられます。著書は『農業全書』のみですが、その内容の水準が高かったため、広く知られるようになりました。
安貞の生涯については、不明な部分が少なくありません。1623年に広島藩士の子として生まれ、25歳のときに福岡藩に仕えますが、数年後にはそれを辞めて、誰にも仕えない浪人となりました。
近畿地方を中心に日本各地を旅行してそれぞれの地域の農業事情を学んだ後、福岡郊外の女原(現在の福岡市西区)で農業生活を始め、以後40年以上にわたり農業に取り組みます。
そして、知り合いとなった貝原益軒の勧めにより、『農業全書』の執筆を決意しました。
このとき、既に『清良記』『会津農書』『百姓伝記』など、いくつかの農書が書かれていましたが、それぞれ特定の地域にしか出回っていなかったため、安貞も益軒も知らなかったようです。2人は自分たちが日本初の農書を書いていると信じていました。
『農業全書』を書く際には、明(中国)の『農政全書』を参考にしながら、近隣諸国の農業を視察し、経験豊かな農民たちを取材して情報を集めたほか、自らの農業体験を通した検証も加えました。
『農業全書』はこれ以後の農書に大きな影響を及ぼしましたが、安貞自身は本書の出版と同年の1697年に亡くなっており、本書の反響を知ることはできませんでした。
当時の影響
①社会状況
1700年前後は「農書の時代」と言われるほど多くの農書が書かれました。
その背景には、1650年ごろから年貢徴収の厳しさが急に緩み始めた事情があります。
そのため、農業で創意工夫をし、農作物の生産を伸ばすことによって、領主の財政のみならず、農民自身の生活を豊かにすることが目指されました。
当時は、収穫した農作物のうち、年貢を納めた後に余った分は商品作物として売ることができたので、農民たちは農書を通して得た知識をもとに最新の農業技術を導入。農作業を効率化することで、商品作物の生産に励みました。
また、効率的に商品作物を生産するため、さまざまな種類の商品作物で適地適作が進むようになりました。
このように、多くの農書が書かれ始めたことと、農村が商品経済に巻き込まれていったことは、互いに関係していました。
②本草学の発達
『農業全書』成立の背景には、本草学と呼ばれる学問の存在がありました。
本草学は中国に古くから伝わる薬学です。
薬の原料として使える動植物や鉱物について、その形態や生態、製薬法、処方、薬効、薬理を総合的に書き記すこと、またそのように書き記された書物をひもといて知識を得ることを目的としています。
中国では500年ごろに陶弘景が『神農本草』という書物を残しているのが初期の例で、明のころに李時珍が『本草綱目』という書物を著して集大成しました。
日本には平安時代に伝わり、特に江戸時代に発達しました。
③貝原益軒の本草学
『農業全書』成立に直接影響を与えたのは、儒学者で本草学者だった貝原益軒の本草学でした。
益軒は林鵞峰、山崎闇斎、松永尺五、木下順庵らと交流しつつ、儒学の研究を進め、多数の著作を残したことで知られていますが、本草学でも『大和本草』という体系的な著作を残しています。
『大和本草』は、『本草綱目』に収録されている薬物から、日本で生産されていないものや薬効が疑わしいものを除いた772種類の薬物を採用し、さらに他の書物からの引用。
日本の特産品や西洋からの渡来品の紹介などを加えて、計1362種類の薬物を収録した書物で、全16巻、付録2巻、諸品図3巻という大作です。
益軒は他にも薬学の知識を背景に、心身の健康のための生活の心得を説いた書物として『養生訓』を書いていますが、『大和本草』は『養生訓』と並んで、益軒の代表作として知られています。
まとめ
✔ 『農業全書』とは、江戸前期の農学者・宮崎安貞が書いた農書のこと。
✔ 諸国旅行での見聞や中国の農書についての知識、自身の農業体験に基づき、農業技術を体系的に解説している。
✔ 稲をはじめ148種類の作物に関する詳細な記述が見られる。
✔ 木版本として刊行され、広く世間に流布した。
✔ これ以後の農書に大きな影響を与えたほか、本書自体も明治時代の初めまで再版され続け、多くの人々に読まれた。