江戸時代には何度も大きな飢饉などに見舞われてしまい何度も改革が進められた時期がありました。

 

今回は、そうした大切な改革の中でも特に重要な『囲い米の制』についてわかりやすく解説していきます。

 

囲い米の制とは

 

 

囲い米の制とは、幕府が各大名に命じて1万石につき50石の米の備蓄を命じた制度のことです。

 

これは、天明の大飢饉の後に松平定信を中心に行われた寛政の改革の1つです。

 

 

囲い米の制の背景・目的 

①天明の大飢饉で飢餓者続出!

江戸時代中期に東北地方では冷害の影響により農作物が獲れなくなっていました。

 

こうした中で、1783年に浅間山が噴火しました。

 

浅間山が噴火したことで、各地には火山灰が撒き散らされ、日射量を低下させて更なる冷害を引き起こしました。

 

こうした状況により農作物は壊滅的なダメージを受けました。これにより、大規模な飢饉(農作物が取れず、人々が食物不足で飢え苦しむること)となります。

 

これを、天明の飢饉といいます。

 

当時は、餓死者が数万人と言われており過去最大の飢饉でした。

 

人の肉を食べていたり、人の肉に草や葉を混ぜて犬の肉として売っていたという記述が残っているほどです。

 

②松平定信の政治の対応!『寛政の改革』

(松平定信 出典:Wikipedia

 

 

こうした天明の飢饉により大阪や江戸を中心とした都市部では打ちこわしが頻繁におこなわれるようになりました。

 

これにより、当時政治の中心にいた田沼意次は失脚します。

 

代わりに政治をおこなうことになったのが松平定信です。

 

松平定信が政治をおこなうようになった理由は、白河藩にて天明の大飢饉を見事な手腕で切り抜けたことでした。

 

また、享保の改革を実施した徳川吉宗の孫にあたる存在で血統も良かったためです。

 

 

松平定信がまずおこなったのは、囲い米の制でした。

 

同じような飢饉が起きた時に餓死者を出さないようにするため備蓄をしておくように勧めたのです。

 

松平定信がおこなった改革は、他にも以下のようなものがあります。これらと囲い米の制をあわせて寛政の改革と言います。

寛政の改革

・七分積金

・棄捐令

・旧里帰農令

・人足寄場の設置

・寛政異学の禁

 

 

囲い米の制の内容 

①囲い米の制の実施

囲い米の制とは、全国の大名に対して1万石につき50石の備蓄を強制したものです。

 

松平定信が白河藩で飢饉を乗り越えた理由は、義倉と呼ばれるものの設置が大きな理由でした。

 

義倉とは、飢饉が起きた時に餓死者を出さないよう、あらかじめ米をはじめとする穀物を貯蔵しておく倉庫のことです。

 

富裕な人からの寄付や税の一部を蓄えていました。

 

これを全国でも強制的に行うことで、基金への対策になると考えました。

 

しかし、寄付を募っていると飢饉に間に合うかどうかがわからないので、寄付ではなく強制的な備蓄を命じたのです。

 

意味は先ほどお話ししたように飢饉に備えるためのものでした。

 

これは、政策のもう一つの七分積金と合わせて実施をしていました。

 

②七分積金の実施

 

 

江戸時代、町に住む人たちには、町を運営するために払うお金を税のように支払うことが課せられていました。

 

この町入用を削減して、削減した分から7割を積み立てて備蓄しようと考えたのです。これを七分積金と言います。

 

囲い米と同様に飢饉に対する政策で、すでに貧困に困っていた人の救済も目的としていました。

 

どういうことかと言うと、町入用削減で浮いた米は江戸町会所と言われる七分積金管理団体によって管理されるようになっており、その預けられた米やお金を江戸町会所では低金利で貸し出し、その利子でどんどん積み立てを増やしていったのです。

 

さらに、利子分で貧困者のための救済施設などを作りました。

 

この制度は、町の人々に受け入れられており、松平定信が失脚後にも続いて明治時代まで残っていた制度です。

 

このように、飢饉対策において寛政の改革は大きな力を発揮しました。

 

囲い米の制のその後

 

 

松平定信のおこなった囲い米の制や、七分積金などは飢饉対策としては素晴らしい政策でした。

 

しかし、無理な備蓄を求めてしまったために町人や幕府からは厳しいと受け入れられなくなっていきます。

 

かつての田沼意次の政治と比較され、『白河の 清き流れに住みかねて もとの田沼の にごり恋しき』という句が読まれてしまうほどでした。

 

そして、どんどん信頼を無くし、将軍徳川家斉との関係は悪化。

 

その結果、松平定信はわずか数年で失脚することになりました。

 

寛政の改革のその他の内容

 

さて、さいごに寛政の改革の他の内容についても詳しく見ていきましょう。

 

①棄捐令

棄捐令とは、鎌倉時代に出された徳政令と同じ効果を持ちます。

 

簡単に言うと借金の帳消しです。

 

これは、天明の大飢饉で貧困になってしまった旗本や御家人を救済する意味がありました。

 

②旧里帰農令

旧里帰農令は、江戸に出稼ぎに来ていた人を故郷に帰るように勧めるものでした。

 

この後に、水野忠邦がおこなった天保の改革の人返し令とは異なり強制力はありませんでした。

 

これご出された理由としては飢饉により食糧不足が相次いでいたので、都市部から人口を減らし食料の確保をするためというのが目的です。

 

 

③人足寄場の設置

当時、貧困にあえいでいた人々を救うために、人足寄場を設置しました。

 

人足寄場とは現在のハローワークのような場所で、職業訓練をおこなっていました。

 

飢饉の影響で職を失ってしまった人を救済することが目的でした。

 

④寛政異学の禁

寛政異学の禁に関しては飢饉と関係がありませんが朱子学を学び、古き良き江戸時代の考え方を取り戻そうとして出されたものでした。

 

勘違いしやすいのは、この法令は幕府の教育機関である昌平坂学問所でのことで、全国に対して出されたものではないということです。

 

また強制力も弱かったので、当時流行していた陽明学などの授業も実際にはおこなわれていました。

 

朱子学と比較した陽明学など朱子学と関連づけることで指導ができたのです。

 

 

まとめ

・囲い米の制とは、全国の大名に対して1万石に対して50石の備蓄を命じたもの。

・囲い米の制は、七分積金という制度とセットでおこなわれた飢饉に備える対策である。

・囲い米の制は、他の松平定信がおこなった制作と合わせて寛政の改革と言われている。

・寛政の改革は、囲い米の制、七分積金、棄捐令、旧里帰農令、人足寄場の設置、寛政異学の禁のことをいう。

・囲い米の制など強制力が強く民衆からの反発を受けて松平定信は失脚する。




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