【パリ講和会議とは】簡単にわかりやすく解説!!背景や目的・内容・その後など

 

明治時代の日清戦争・日露戦争を経たあと、大正時代には人類初めての世界戦争である第一次世界大戦がはじまり、日本もそこに巻き込まれます。

 

戦争は1914年から4年間続きましたが、その講和会議として開催されたのがパリ講和会議です。

 

講和会議や講和条約とは、戦争の交戦国の間で戦いの終結の約束をするための会議や条約のことです。近代の戦争は必ず戦争と講和条約とをセットで覚えましょう。

 

今回は、そんな『パリ講和会議』の内容を、第一次世界大戦の経緯とあわせて、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

パリ講和会議とは?

(パリ講和会議における「四巨頭」 出典:Wikipedia

 

 

パリ講和会議とは、1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけてフランスのパリで開催された、第一次世界大戦の終結のために行われた講和会議です。

 

第一次世界大戦は1914年に、三国同盟(ドイツ・イタリア・オーストリア)を中心とする同盟国と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)を中心とする連合国との間で交わされた世界規模の戦争です。

 

1918年に戦争が終わると、敗戦国となったドイツとの講和のための会議として、各国は1919年から翌年にかけてパリ講和条約を開き、講和条約としてヴェルサイユ条約が締結されます。

 

また、パリ講和会議では、ウィルソンが唱えた十四カ条の平和原則に基づいて、国際連盟の設立や民族自決の提言などがなされました。

 

パリ講和会議とヴェルサイユ条約は、アジア諸国の独立運動・反日運動の活発化や、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制の成立に影響を与えていきます。

 

パリ講和会議が開催された背景や目的

(第一次世界大戦におけるドイツの突撃歩兵 出典:Wikipedia

 

 

パリ講和会議は第一次世界大戦の講和のための会議です。

 

第一次世界大戦の内容を踏まえていきましょう。

 

①第一次世界大戦とドイツの敗戦

第一次世界大戦がはじまる頃、ドイツ・イタリア・オーストリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商は、植民地拡大を狙いあって対立していました。

 

 

1914年、バルカン半島でオーストラリア皇太子がセルビア人に殺される事件(サラエボ事件)が起こります。

 

この事件をきっかけに第一次世界大戦がはじまっていきます。

 

 

戦争に参戦した国々は、三国協商(英・仏・露)を中心とする連合国と、三国同盟(独・伊・墺)を中心にする同盟国とに分かれて、世界のいたるところで交戦しました。

 

1918年、劣勢となったドイツが連合国側との休戦協定に合意し、戦争はようやく終結します。

 

そして翌1919年(大正8年に、戦争の正式な終結のために、参加国が集まってパリ講和会議が開かれます。

 

②日本の参戦と二十一カ条の要求

ヴェルサイユ条約の背景として、第一次世界大戦中の日本の動向も押さえておきましょう。

 

1902年にイギリスと日英同盟を結んでいた日本は、それを理由に連合国側として参戦します。]

 

 

日本は戦争に乗じて、中国での利権を拡大しようと画策しました。

 

1914年、日本は当時中国の利権を多く握っていたドイツに宣戦布告し、中国や南洋諸島のドイツ領を次々と占領していきます。

 

さらに1915年、日本は中国に二十一カ条の要求をつきつけ、中国における日本の権利の拡大を求めました。

 

 

二十一カ条の要求は、山東省におけるドイツの権益を日本が引き継ぐことや、日本が持っていた南満州鉄道などの借地権の期限延長などを求めるものでした。

 

このような日本の動向も、パリ講和会議の内容に深く関わるので、あわせて押さえておきましょう。

 

パリ講和会議の参加国と内容

(パリに到着した米大統領ウィルソン 出典:Wikipedia)

 

 

第一次世界大戦は、植民地支配を巡る各国の対立や利害関係が複雑に絡み合った戦争でした。

 

パリ講和会議にも、その利害関係が様々に影を落しています。

 

①パリ講和会議の参加国・日本全権

パリ講和会議には、第一次世界大戦の戦勝国27か国が参加しました。

 

中でも主導権を握ったのは、アメリカ・イギリス・フランスの三国です。

 

日本からは西園寺公望と牧野伸顕が日本全権として派遣されました。

 

(会議に参加した牧野伸顕(左)と西園寺公望)(右)) 出典:Wikipedia

 

②ヴェルサイユ条約の締結

パリ講和会議では、敗戦国ドイツとの講和条約として、ヴェルサイユ条約が締結されました。

 

 

ドイツは多額の賠償金を請求され、それまで有していた植民地を他国に譲り渡すことになります。

 

日本もヴェルサイユ条約によって、ドイツから南洋諸島の委任統治権(ドイツに委されたという名目で植民地を統治する権利)を譲り受け、また中国山東省におけるドイツの権益を継承することになります。

 

二十一カ条の要求の一部が正式に追認されたということになります。

 

③パリ講和会議とウィルソンの十四カ条の平和原則

パリ講和会議は、第一次世界大戦への反省から、世界の新たな体制・秩序をつくることを目指す側面も持っていました。

 

その前提となったのが、第一次世界大戦中にアメリカのウィルソン大統領が発表していた十四カ条の平和原則です。

 

(ウィルソン大統領 出典:Wikipedia)

 

十四カ条の平和原則では、国際秩序を維持するための国際連盟の設立や、東欧の諸民族の民族自決が提唱されました。

 

民族自決とは、各民族が自分たちで自分たちのことを決めようという考えで、民族や国家の独立を目指す理念です。

 

ヴェルサイユ条約はウィルソンの十四カ条の理念を原則としました。

 

ヴェルサイユ条約の第一条では、国際連盟の設立が定められ、また、民族自決の理念に則り、中欧・東欧諸国の独立も進められます。

 

ヴェルサイユ条約に基づいてつくられたヨーロッパの新しい体制のことを、ヴェルサイユ体制と呼びます。

 

パリ講和会議の影響やその後

①アジアの反日運動

ヴェルサイユ条約は表向きは民族自決の立場に立ったものでしたが、ヨーロッパ諸国の独立が進められた反面、アジアの植民地にはあまり目が向けられませんでした。

 

むしろ、ヴェルサイユ条約が日本の強引な二十一カ条の要求を認めたことで、アジアでは反日運動・独立運動が起りました。

 

1919年(大正8年3月に朝鮮で三・一独立運動が、同年6月には中国で五・四運動が起こります。

 

 

五・四運動は、ヴェルサイユ条約の調印拒否と二十一カ条の要求の破棄を求めるものでした。

 

②ワシントン体制へ

ヨーロッパのヴェルサイユ体制に対し、アジア・太平洋地域でも、新たな国際秩序をつくる動きが発生しました。

 

1920年(大正9年)から1921年(大正21年)にかけて、アメリカでワシントン会議が開かれます。

 

 

ワシントン会議によって、日本は第一次世界大戦で得た旧ドイツ権益の一部を手放すことになります。

 

第一次世界大戦で日本が獲得した旧ドイツ権益を中国へ返還することが、ワシントン会議の中で定められました。

 

まとめ

 パリ講和会議とは、1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて開催された、第一次世界大戦の講和会議のこと。

 1914年(大正3年)に植民地支配を巡る各国の対立から起こった第一次世界大戦は1918年(大正7年)に終結し、その講和のためにパリ講和条約が開催された。

 パリ講和会議では、講和条約としてヴェルサイユ条約が締結され、国際連盟の設立や民族自決の理念などが提案された。

 パリ講和会議とヴェルサイユ条約を機に、五・四運動や三・一独立運動など、アジア諸国での反日運動・独立運動が活発化し、また、ヴェルサイユ体制やワシントン体制によって、新たな国際体制をつくることが模索された。