幕末のペリー来航により開国を決断した江戸幕府は、欧米各国と修好通商条約を結んだ後、さらに「改税約書」という関税の税率を定める協約に調印しました。

 

今回は、その『改税約書』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

改税約書とは?

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(水野忠精 出典:Wikipedia)

 

改税約書とは、1866年に江戸幕府の全権・水野忠精と英仏米蘭4カ国の代表との間で調印された、関税率を定めた協約のことです。

 

安政五カ国条約で定められた、従来の対日貿易の関税率を大幅に軽減するとともに、貿易制限を撤廃することなどが盛り込まれました。

 

改税約書の発効後、日本は英仏米蘭4カ国からの輸入品に高い関税をかけて閉め出すことができなくなりました。

 

その結果、安価な輸入品が大量に国内市場に流入し、国内産業は大きな打撃を受けました。

 

189497年の条約改正を経て、改税約書は失効しました。

 

当時の時代背景

①日本の開国

中国(清)との貿易や太平洋での捕鯨の中継地として日本に注目したアメリカは、1853年にペリー提督を使節として日本に派遣しました。

 

ペリーは軍艦4隻を率いて、江戸幕府に開国を要求し、翌1854年に日米和親条約の締結を実現します。

 

 

こうして日本は開国を決断しました。

 

②安政五カ国条約の締結

1858年には、江戸幕府はアメリカ総領事ハリスとの間で、日米修好通商条約を締結しました。

 

これは、治外法権(領事裁判権)を認めることや、日本に関税自主権がないことを含む不平等条約でした。

 

同年中に同じ内容の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアの4カ国とも結びました。

 

日米修好通商条約も含めて、これら一連の条約を安政五カ国条約と呼びます。

 

 

改税約書の内容詳細

①調印の経緯

安政五カ国条約で定められた兵庫港の開港期限が迫ると、英仏米蘭4カ国の連合艦隊が兵庫沖に集結し、同港を早く開港するように圧力をかけ始めました。

 

しかし、江戸幕府は兵庫港の開港を延期したため、その代償として関税率の引き下げ要求に応じざるをえなくなりました。

 

そこで、1866625日、江戸幕府の全権・水野忠精と英仏米蘭4カ国の代表は、江戸で関税率を定める協約を結びました。これが改税約書です。

 

改税約書は調印6日後の71日に発効しました。

 

②本文の条項

改税約書の本文の条項では、次のことが定められました。

  • 貨物の陸揚げ、船積み、および関税行政における制限を撤廃すること
  • 保税倉庫と灯台を設置すること
  • 港へ輸送される日本側の貨物に内地課税をしないこと
  • 内外貨幣の等価交換の原則に従うこと
  • すべての日本人に、外国船舶の購入、外国への旅行・学術研究、国内外の港での貿易の自由を与えること。

 

③付属の目録

改税約書の付属文書である運上目録では、輸入品と輸出品がそれぞれ4区分に分類された上で、その区分ごとの処置が定められました。

 

まず、輸入品は次の4区分に分類されました。

第一種:綿糸、毛織物、鉄類など、英仏米蘭側の主力輸出品89品目

第二種:免税品

第三種:アヘンなどの輸入禁止品目

第四種:その他の貨物 

このうち、輸入税がかかる第一種と第四種の貨物にはともに、5%の従量税(商品の数量を基準に額を決める税)が課されました。

 

また、輸出品は次の4区分に分類されました。

第一種:海産物、生糸類、茶など53品目

第二種:金銀の貨幣、地金(加工前の金属塊)

第三種:米穀類

第四種:絹織物など

 

④結果

改税約書が調印されるまで、日本と英仏米蘭露との貿易に関する取り決めは、安政五カ国条約にしたがって定められており、諸外国から日本への輸入品に対しては、約20%の輸入税が課されていました。

 

ところが、改税約書によって、英仏米蘭からの輸入品にかけられる輸入税は20%から一律5%へと大幅に引き下げられました。

 

これは清(中国)と同じ水準です。

 

つまり、英仏米蘭は日本を清と同様に、自国の輸出品を売りさばく市場として利用しようとしたのです。

 

これにより、英仏米蘭から安価な輸入品が大量に国内市場に流入したため、国内の産業は大きな打撃を受けました。

 

また、改税約書で定められた5%の従量税は、のちに銀相場が下落したことで、実質的には3%以下にもなりました。

 

条約改正と改税約書の失効

 

改税約書調印の2年後に成立した明治新政府は、当初から安政五カ国条約や改税約書が不平等条約であることを自覚していました。

 

そのため、これ以降の約40年間は、条約改正こそが日本外交の最大の課題となります。

 

①岩倉使節団の派遣

条約改正に向けた取り組みに先立って、日本は1871年に岩倉使節団を欧米に派遣しました。

 

その目的は、明治新政府の国書を欧米各国に届けること、条約改正の予備交渉をすること、欧米各国の制度や文物を収集・調査すること、の3つでした。

 

しかし、欧米での見聞から『特命全権大使米欧回覧実記』(全100巻)を作成するなどの成果を上げる反面、肝心の条約改正の予備交渉には失敗してしまいます。

 

②寺島宗則による交渉

岩倉使節団の結果を受けて、1878年外務卿(外相)・寺島宗則が関税自主権の回復のみを定めた条約改正案を出し、欧米列強と個別に交渉を始めました。

 

その交渉の中で、アメリカが日本側の条約改正案を認めたため、まずアメリカと改定約書の調印を行いました。

 

ところが、イギリスの駐日公使パークスの猛反対により、イギリスとの交渉が挫折してしまいます。

 

また、アメリカと交わした改定約書には、他の列強が同意した場合に発効するという条件があったため、結局この改定約書も発効しないままに終わりました。

 

こうして列強各国との交渉は失敗してしまいます。

 

③井上馨による交渉

1879年に外務卿(外相)になった井上馨は、従来の方針を転換して、関税自主権の回復と治外法権(領事裁判権)の撤廃の両方を少しずつ進めていく方針を採用しました。

 

治外法権の撤廃を重視した背景には、当時外国人による国内での犯罪に対して軽い刑罰しか課されないことが問題視されたという事情がありました。

 

条約改正に難色を示すイギリス側の提案で、1882年から東京で条約改正予議会が開かれ、井上の案をもとに条約改正の条件が議論されました。

 

そこでは、特に治外法権の撤廃が議論の焦点となりました。

 

議論の結果、治外法権の撤廃の条件として・・・

  • 日本の裁判において多数の欧米人の法律家を参加させること
  • 西洋の法体制にもとづく日本の法律を速やかに制定すること
  • 内地の居住権や営業権をすべて外国人に開放すること

などが挙げられました。

 

1886年からの条約改正本会議では、日本と欧米列強はこの案で合意しました。

 

また、関税率については、改税約書で定められた5%から11%に引き上げることも定められました。

 

これにより、条約改正の実現が見えたかのように思われましたが、日本の裁判に欧米人の法律家を参加させるのは、日本の法権の独立を損なうとして、国内で反対運動が起こってしまいます。

 

その結果、1887年に井上外相は辞任し、条約改正交渉は延期されました。

 

④大隈重信による交渉

井上の後任となった外相・大隈重信は、国内の政府批判を踏まえた上で、再び欧米列強との個別交渉で条約改正を目指す方式を採用しました。

 

大隈は井上の改正案をもとにしながらも、日本の法権の独立性を守ることを目指して交渉を進めました。

 

そして、ついに1889年アメリカとの単独条約を締結しました。

 

そこでは、欧米人の法律家の参加は大審院(最高裁判所)に限定すること、日本の法律は整備するが西洋の法制には必ずしも囚われないことを認めさせた代わりに、アメリカ人に対して日本の内地を開放することを定めました。

 

しかし、この交渉に対して、自由民権派の自由党議員や国家主義者らが猛反発をし、大隈自身も刺客の爆弾によって負傷したことで、政府は条約改正交渉を断念せざるを得なくなりました。

 

そのせいで、アメリカと締結された単独条約も取り消しとなってしまいました。

 

⑤青木周蔵・榎本武揚による交渉

大隈の後任となった青木周蔵外相は、大隈の失敗を踏まえて、日本の裁判に欧米人の法律家を参加させるという条件を公約せずに、治外法権を撤廃する案を模索しました。

 

その背景には、これまで治外法権の撤廃に対して強硬に反発してきたイギリスの態度が軟化し、妥協できる可能性が出てきたという事情がありました。

 

そして、青木の後任である榎本武揚外相が、青木の案を受け継いで欧米列強と交渉し、まずポルトガルとの間で治外法権を撤廃することに成功します。

 

⑥陸奥宗光による交渉

第二次伊藤博文内閣の外相・陸奥宗光は、青木・榎本の成果を引き継ぎ、イギリス、ドイツ、アメリカの3カ国と個別交渉を始めました。

 

そして、ついに18947月、まずイギリスとの間で、治外法権を撤廃することに成功します。

 

その際、関税率の引き上げも達成しています。これにより、改税約書は失効しました。

 

そして、189495年の日清戦争の勝利により、国際的地位が向上した日本は、1897年末までに、イギリス以外の欧米列強との間で、同じ内容の改正条約(第一次改正条約)に調印しました。

 

こうして日本は欧米列強の治外法権を完全に撤廃することに成功し、改税約書も完全に失効させることができました。

 

⑦小村寿太郎による交渉

第一次改正条約の期限終了に伴い、第二次桂太郎内閣の外相・小村寿太郎は、19117月、欧米列強との間で、関税自主権の回復を含めた条約改正を行いました。

 

この時点ではじめて日本は自らの判断で関税をかけられるようになりました。

 

改税約書の語呂合わせ

 

改税約書は1866年に兵庫港開港の遅れの代償として、調印されたものでした。

 

それにちなんで、次の語呂合わせで覚えることができます。

 

「兵庫開港は一晩(18)で無論(66)不可能、改税約書の調印へ」

 

まとめ

 改税約書とは、1866年に江戸幕府の全権・水野忠精と英仏米蘭4カ国の代表との間で調印された、関税率を定めた協約のこと。

 それまでの対日貿易では、安政五カ国条約で定められたとおり、輸入品に対して約20%の関税がかけられていた。

 改税約書では、輸出入ともに一律5%の従量税が課されることになり、関税率は大幅に軽減された。

 改税約書には、他にも貿易制限の撤廃などが盛り込まれた。

 これ以降、英仏米蘭4カ国から安価な輸入品が大量に国内市場に流入し、国内産業は大きな打撃を受けた。

 1894~97年の条約改正を経て、改税約書は失効した。

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