【日英同盟とは】簡単にわかりやすく解説!!締結の理由や内容・結果・破棄など

 

日本は明治維新以来、欧米列強に並び「一等国」になるために国力を高めていきました。

 

日清戦争の勝利でアジアナンバー1になった日本に立ちはだかった壁がロシア帝国です。

 

このロシアを共通の敵として結ばれた日英同盟は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。

 

今回はそんな『日英同盟』の背景や内容・その後などについて、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日英同盟とは?

(第2次日英同盟後 英王子から勲章を献上される明治天皇 出典:Wikipedia

 

 

日英同盟とは、1902年(明治35年)に義和団事件をきっかけに日本とイギリスの間で結ばれた同盟です。

 

同盟の目的はロシアの南下政策に対抗すること。これを結ぶことでイギリスは長年の孤立政策を捨てることになりす。

 

しかし、この同盟は1921年のワシントン会議で結ばれた四カ国条約で廃止されることになります。

 

日英同盟が結ばれた背景や締結理由

(英・仏・オスマンvs露のクリミア戦争 出典:Wikipedia

①世界規模でのイギリスとロシアの対立

19世紀のロシアは年中使用できる凍らない港(不凍港)を確保するため、領土を南に広げようとしていました。

 

そのたびにイギリスとの対立を引き起こしました。

 

黒海方面のクリミア戦争や中央アジアでの対立などがその代表です。

 

中国でも清の弱体化でイギリスとロシアの対立が目立ち始めました。

 

②義和団事件の発生

(義和団事件。戦いの様子)

 

 

日清戦争の敗北で弱いことが発覚してしまった清国は、欧米列強によって半植民地化されていきました。

 

そのことに反発した民衆が義和団を中心に外国を追い出す運動を始めました(義和団事件)。

 

 

日本とロシアを主力とする列強の連合軍はこの動きを鎮圧し、北京に入城しました。

 

戦いの後、連合軍は引き上げましたがロシア軍だけは満州にとどまり続けました。

 

③ロシアの脅威

(日英同盟の風刺画『火中の栗』。露が焼いている栗(韓国)、英におだてられている日本。虎視眈々とねらう米

 

 

日清戦争に勝利した日本は清国から遼東半島・台湾・澎湖諸島などを得ました。

 

 

ところが、遼東半島を前から狙っていたロシアは面白くありません。

 

フランス・ドイツを誘って、日本に遼東半島を返還するようプレッシャーをかけました(三国干渉)。

 

 

日本はこの圧力に屈し、賠償金と引き換えに遼東半島を返還しました。

 

すると、ロシアは半島の重要都市である旅順と大連を租借(長期間借りること)し、満州の支配を固めてしまいました。

 

④ロシアの満州支配に対する日本政府の反応

日本国内ではロシアに対してどう対応するか、意見が二つに分かれました。

 

一つ目はロシアと戦っても勝ち目がないから、ロシアに満州を譲り、日本は朝鮮半島を確保するべきだという考えです(満韓交換論)。

 

二つ目は、イギリスと同盟を結んでロシアに対抗するべきだという考えです(日英同盟論)。

 

首相の桂太郎や外相の小村寿太郎は日英同盟を主張し、反対する伊藤博文らを抑えてイギリスと本格的に交渉を始めました。

 

⑤イギリスの考え

イギリスは日清戦争に勝利した日本の軍事力に注目しました。

 

世界各地に植民地を持つイギリスは一国だけですべてを守ることが難しくなっていました。

 

特に南アフリカでおきたボーア戦争に多くの戦力を割かざるを得ず、東アジアは手薄な状態にありました。

 

日本と手を組むメリットがあったのです。

 

日英同盟の内容

(日英同盟の批准書署名原本 出典:Wikipedia

 

 

1902年、日本はイギリスとの間に日英同盟を結びました。主な内容は次の通りです。

 

日英同盟の内容

  • イギリスの中国での利権と日本の中国・韓国での利権を互いに認める。
  • 条約を結んでいる国の一方が戦っているときはもう一方は中立を維持する。
  • ほかの国が戦いに加わった場合は、もう一方の国も参戦する。

 

日英同盟の結果

(日露戦争時。戦場の様子)

①日露戦争でロシアの友好国が参戦しなかった

実際にこの条約は日露戦争の時に発動します。

 

 

日露戦争で日本とロシアが戦った時、イギリスは中立を守りました。

 

ロシアはフランスと仲が良かったのですが、フランスが戦争に参加するとイギリスが日本側につくことが明らかだったので、フランスは参戦しませんでした。

 

これにより日本は三国干渉のように複数の国から圧力を受けることを避けることができました。

 

②日露戦争での戦費調達

日本が日露戦争を戦うとき、最も頭を悩ませたのが戦費の調達でした。

 

日清戦争のころとは比べ物にならないくらい近代化し、大規模化した日露戦争は兵力も、弾薬も、食料も大量に必要としていました。

 

国家予算の6倍にも達した戦費3分の1は外国からの借金でした。

 

イギリスは日本が借金の募集をイギリスで行うことを認めます。その甲斐があって、日本は資金を確保することができました。

 

日英同盟のその後

①第二次・第三次日英同盟

1902年に結ばれた日英同盟は2度の改定を経て、1923年まで継続しました。

 

日露戦争後に結ばれた第二次日英同盟では日本による韓国の保護国化や、適用範囲のインドまでの拡大が確認されました。

 

第三次日英同盟では、同盟の対象からアメリカを外すことが決められました。

 

②第一次世界大戦への参戦

1914年に第一次世界大戦がはじまると、日本は日英同盟を理由として連合国の一員として参戦しました

 

その目的は、イギリスと敵対していたドイツが中国に持っていた山東省の利権を奪うことでした。

 

ヨーロッパとの戦争で手一杯だったドイツ植民地を日本は占領します。

 

中国に対しては二十一箇条の要求をつきつけて山東省利権を日本が引き継ぐことを認めさせました。

 

 

また、地中海での戦いに海軍を参加させるなど実際の戦闘にも参加します。

 

③日本への警戒

大戦中、日本がアジアで勢力を拡大していくことに列強が反感を持ち始めました。

 

イギリスも同盟の利点より欠点を考えるようになります。

 

また、アメリカは日露戦争後に強くなりすぎた日本に警戒心を持つようになります。

 

日本の力を抑えるためには日本とイギリスを引き離す必要がありました。

 

日英同盟の破棄・解消

 

 

第一次世界大戦が終結すると、ヨーロッパではヴェルサイユ条約に基づくヴェルサイユ体制が始まりました。

 

 

一方、太平洋ではアメリカ主導で新しい体制づくりがはじまりました。

 

アメリカはワシントン会議を開きます。そこで、日本・アメリカ・フランス・イギリスによる四カ国条約が結ばれました。

 

 

こうなれば、敵となる国はいなくなり、日英同盟も不要のものとなりました。

 

こうして、1923年の四カ国条約締結によって日英同盟は廃棄されました。

 

まとめ

 日英同盟とは、1902年(明治35年)ロシアに対抗するために日本とイギリスが結んだ同盟のこと。

 日英同盟の主な内容は「イギリスの中国での利権と日本の中国・韓国での利権を互いに認める」「条約を結んでいる国の一方が戦っているときはもう一方は中立を維持する」「ほかの国が戦いに加わった場合は、もう一方の国も参戦する」である。

 日英同盟によりイギリスは孤立政策を捨て、日本も孤立せずにロシアと戦うことができた

 日英同盟は1923年ワシントン会議が開催され、四カ国条約が結ばれたことによって廃棄された。