【蛮社の獄とは】簡単にわかりやすく解説!!きっかけや内容・影響・その後など

 

何かと有能な人は嫌な奴扱いされてしまうことが多いですね。

 

これをことわざでは『出る杭は打たれる』というのですが、江戸時代後期にはそんな有能であった蘭学者を処罰する事件が起きました。

 

今回は蘭学者が処罰された『蛮社の獄(ばんしゃのごく)』についてわかりやすく解説していきます。

 

蛮社の獄とは

 

 

蛮社の獄とは、1839年(天保10年)に起きた幕府による弾圧事件のことです。

 

モリソン号事件や鎖国政策など政府批判を行っていた蘭学者の高野長英、渡辺崋山などが処罰されました。

 

蛮社の獄がおこった背景・きっかけ

(蘭学事始 出典:Wikipedia

①蘭学の大ブーム

江戸時代後期になってくると江戸では当時唯一貿易をしていた西洋の国であるオランダの学問である蘭学が学者の中でブームとなり、西洋の文化や知識などを勉強することが徐々に広まっていきました。

 

この蘭学を勉強している学者の集団のことを国学者は『蛮社』と呼んでいました。

 

特に西洋の医療の医療技術なんかは杉田玄白がオランダの医学書を翻訳した解体新書などをはじめとして盛んに研究が進められていました。

 

今回の主役である高野長英、渡辺崋山もこの蘭学を学んでいる医者の一人でした。

 

 

②欧米諸国の接近

19世紀後半になっていくと欧米諸国は産業革命のころにできた機械によって綿などの商品の大量生産ができるようになっていました。

 

欧米諸国は日本を商品をアジアに売るための重要な中継地として使おうと計画し、さらにアメリカは西海岸を獲得して太平洋の鯨を取るようになっていき、日本の捕鯨の重要な補給基地としたかったのです。

 

そのため、19世紀後半になっていくと日本近海にたくさんの外国船が来航してきました。

 

幕府はロシアのラクスマンの根室来航、イギリスの大津浜事件などの対応に追われることになります。

 

そこで幕府は異国船打払令という決まりを作りました。異国船打払令とは外国の怪しい船を見かけたらすぐさま大砲をぶっ放して追い払うという決まりです。

 

 

こうして幕府は外国に対して閉鎖的な方針をとるようになりました。

 

③モリソン号事件と異国船打払令

(モリソン号 出典:Wikipedia

 

 

蛮社の獄が起こる最大の原因なったモリソン号事件は、1837年に起こった外国船を打ち払った事件のことです。

 

江戸時代には日本の漁師が漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていました。

 

あのジョン万次郎も元々は土佐の漁師です。モリソン号はそんな漂流した漁師を保護したアメリカの船です。

 

モリソン号の船長はこの漁師たちを日本に送ってその代わりに日本と貿易をしようと試みました。

 

しかし日本側は異国船打払令により、モリソン号に対して砲撃をして打ち払いました。

 

これによって打ち払いには成功したものの、モリソン号事件は日本の警備体制の弱さなどがあらわになりました。

 

しかし、問題なのは日本の警備体制ではなく、外国船を打ち払ったこと。高野長英と渡辺崋山は外国船を何の事情も知らずに打ち払ったこの事件を大いに非難しました。

 

 

蛮社の獄の内容

(高野長英 出典:Wikipedia

①戊戌夢物語と慎機論

高野長英は打ち払いに反対する書『戊戌夢物語』を書きあげました。

 

この本は幕府の外国への対応を非難している内容でした。

 

渡辺崋山も『慎機論』という本でモリソン号事件を非難しています。

 

②鳥居耀蔵の恨み

幕府はこれ以上モリソン号事件のように外国船が来られたらまずいと思い、日本を守るために江戸湾沿岸の測量を始めて外国船に備えようとしていました。

 

この測量に失敗してしまったのが鳥居耀蔵という人です。

 

この人は天保の改革の時でも重要な人物となりますので覚えていた方がお得です。

 

 

鳥居耀蔵は昔ながらの方法で測量してしまったため、蘭学の測量技術を取り入れた人に負けてしまいます。

 

鳥居耀蔵は自分の面子を潰されてしまったことに怒り、蘭学者を目の敵にするようになりました。

 

そんなときに蘭学者の中に当時日本の領土か怪しかった小笠原諸島に渡航しようとしている人がいるという噂が流れます。

 

もちろん鎖国の時代ですので海外渡航は重罪でした。鳥居耀蔵はこの噂を聞いて蘭学者を続々と逮捕。蛮社の獄が始まりました。

 

③渡辺崋山と高野長英のその後

(渡辺崋山 出典:Wikipedia

 

 

渡辺崋山は慎機論を書いた罪によって江戸から追放。故郷である三河国の田原藩で謹慎となってしまいます。

 

渡辺崋山は田原藩で絵の展示をしていましたが、それが藩から批判されてキレてしまい自害してしまいました。

 

高野長英の方も異国船打払令の批判と開国を主張した罪によって無期懲役となってしまいます。しかし、とある日ラッキーなことに牢屋が火事になり、どさくさにまぎれて脱獄します。

 

その後幕末の四賢侯の一人である伊達宗城によって庇護され、宇和島でオランダ語の翻訳や宇和島藩の軍隊の近代化を進めていました。

 

しかし、江戸で蘭学を勉強したいという気持ちが抑えられずに高野長英は江戸に戻ります。

 

ただ江戸では指名手配板がそこら中に貼ってあったため、江戸での生活はできないと同じ状態でしたが、なんと高野長英は硝酸という劇薬で自分の顔を焼くという大胆な行動に出ます。

 

しかし結局バレてしまい、とうとう役人に捕まってしまい、捕まった直後に亡くなってしまいました。

 

蛮社の獄の影響

(アヘン戦争 出典:Wikipedia

天保の薪水給与令と日本の未来

蛮社の獄によって高野長英と渡辺崋山を処罰した幕府でしたが、その後衝撃の報告が幕府にやってきます。

 

1843年、アヘン戦争で東アジアの巨大国家であった清がなんとイギリスに負けてしまったのです。

 

 

あの清ですら負けてしまったのですからもし日本がイギリスと戦うことになったら日本はイギリスの植民地になることになるのは確定です。

 

そこで幕府の老中であった水野忠邦はこれまでの異国船打払令をやめて外国船が来たら燃料の薪と水などの食料を与えるとしました。

 

そして、ついには高野長英が亡くなってから4年後。浦賀にペリーが来航して日本は鎖国をやめて開国をし、外国と貿易を始めました。

 

 

その後、日本は蛮社の獄によって肩身が狭くなっていた蘭学者たちをどんどん活用していって近代化を進めていくことになるのです。

 

まとめ

 蛮社の獄とは幕府のモリソン号事件に対する批判をした高野長英と渡辺崋山を処罰した事件のこと。

 蛮社の獄が起こる前日本では外国船はとりあえず打ち払う異国船打払令という方針をとっていた。

 結局高野長英が亡くなってから4年後に日本は開国した。