【五・四運動とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や背景・きっかけ・影響について

 

近現代史に入ると多くなる、「数字+事件」や「数字+運動」の語句の数々。

 

人名や地名が入っていないのでイメージしにくいのですが、ぱっと覚えてマスターしてしまいましょう。

 

今回は五・四運動について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

五・四運動とは?

(天安門広場に集まる人々 出典:Wikipedia

 

 

五・四運動とは、第一次世界大戦後、1919年に中国で起きた反日・反帝国主義運動です。

 

パリ講和会議で、山東省のドイツ権益が日本に渡されると聞いた学生や民衆がこれに反対しデモを起こしました。

 

この結果、中国はヴェルサイユ条約を拒否することになりました。

 

五・四運動の内容

①五・四運動が行われた場所

北京市内、天安門広場で学生によるデモが起きました。

 

学生たちはパリ講和会議で山東省の権益が日本に渡されることに反対したのです。

 

この2か月前の韓国でのデモ(三・一独立運動)に影響され、北京の学生も同じように反日を叫んで首都の広場に集まり、デモを行いました。

 

 

②運動の広がり

その後、運動は中国全土に広がり、デモやストライキ、そして日本製品の不買運動(日貨排斥)が起こりました。

 

また、デモの対象も反日から反帝国主義へと広がっていきます。

 

五・四運動の担い手は学生や民衆であり、現代の中国共産党はこの五四運動の影響で誕生し、現在に至っています。

 

③三・一独立運動と少し違う

名前が似ている韓国の三・一独立運動は「独立」がついているのに、なぜこちらはついていないのでしょうか。

 

それは、中国がなんとか独立を保っていたからです。

 

欧米列強や日本は中国を支配下に置こうと拠点となる居留地(租界)を手に入れたり、鉄道を建設していましたが、韓国と違いどこの国の植民地にもなっていませんでした。

 

このため、「独立運動」とはならないのです。

 

また、日本製品の不買運動など経済的な反対運動があったことも特筆すべき点です。

 

五・四運動の背景

(北京大学の学生によるデモ行進)

 

 

運動の起きた1919年当時、清朝のあとを継いだ中華民国(中国国民党)は中国全土を掌握できず、軍隊を持った実力者(軍閥)が各地を支配して互いに争う内戦状態になっていました。

 

国内のあちこちには租界(外国人居留地)があり、各軍閥は独自に外国とやり取りして関係を深めていました。

 

特に日本は軍閥にお金を貸したり、山東省に出兵して軍を置いたり、欧米の目がヨーロッパ戦線に注がれている間に中国への進出を強めました。

 

山東省の権益のゆくえ

①青島の戦い

1915年、中国はまだ世界大戦に参戦していませんでした。

 

しかし、中国国内では戦闘は起こっていました。

 

ドイツの支配していた山東半島の膠州湾租借地(青島)をめぐってドイツと日本が戦争をしていたのです。(ややこしいですが…)

 

結局日本が勝ったのですが日本軍は兵隊を中国に残しました。

 

②「対華21か条の要求」

そして、日本政府は「対華21か条の要求」を袁世凱政権に突きつけ、この要求を受け入れなければ戦争をするぞ!(最後通牒)と迫りました。

 

内容には・・・

1.ドイツが持っていた山東省の権益を日本に渡す

2.旅順・大連の租借地の期限延長

3. 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)を日中合弁とする 

などなどがありました。

 

この要求は中国を日本が乗っ取ろうとしているものだとして、中国国民を非常に怒らせました。中国はこの要求を受け入れた5月9日を「国恥記念日」と定めました。

 

 

③山東省はドイツのものだ!

青島を攻めたとき日本は「青島を中国に返すため」といっていたのですが、勝った後も軍隊を残したことで、日本が中国を侵略しようとしていることが明らかになってしまいます。

 

これは欧米列強の間でも問題になりましたが、まだ第一次世界大戦は続いていて、ドイツが勝つか負けるかわからなかったのでとりあえずそのままになっていました。

 

中国も内戦で日本を追い出すどころではありませんでした。

 

④日本も権益が欲しい

大戦後のパリ講和会議では、大して戦っていない日本が山東省の権益を求めることを英仏米の連合国は良く思いませんでした。

 

また、中国もドイツが負けたからには山東省の権益を返してほしいと主張しました。

 

すったもんだの末、日本の主張がとおってヴェルサイユ条約で山東省の権益が日本に譲渡されることが明記されました。

 

この内容が伝わると中国全土で反対運動(五・四運動)がおきます。

 

 

五・四運動に影響を与えた出来事

1919年、中国国内は軍閥がひしめき合い、内戦状態となっていました。

 

混乱する中国国内でなぜ急に全国的なデモが起きたのでしょうか。

 

これは第一次世界大戦後にトレンドとなった「民族自決」ロシア革命が背景にあります。

 

①民族自決

三・一独立運動でも触れたように大戦後、世界では「民族自決」という新しい潮流が起きていました。

 

アメリカ大統領ウィルソンが唱えた、各民族集団は集団の意思に基づいて自分たちがどの国に属するのか、これからどうするのかを決められる、という権利=「民族自決」です。

 

中国の学生や民衆にもこの考え方は響きました。

 

内戦と列強の侵略が続く現在の状況を「亡国の危機」としてデモを行ったのです。

 

②ロシア革命

もう一つはロシア革命です。

 

1917年に起きたロシア革命は世界に衝撃を与えました。

 

労働者や農民が中心となって国を支える史上初の社会主義国家の成立は、ほかの国の労働者や農民に勇気を与えました。

 

アヘン戦争以来、自分たちの国が列強や日本によって食い物にされ、さらには国内の実力者である軍閥がその日本と内通していることを見てきた民衆は、自分たちの手に国を取り戻したい、と強烈に思ったのです。

 

 

③三・一独立運動

そして数か月前に起きた三・一独立運動です。

 

隣国でおきた独立運動はアジア全体に影響を及ぼし、中国でもナショナリズムが盛り上がりました。

 

五・四運動の影響・その後

①ヴェルサイユ条約を拒否

中国政府は最終的にヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。

 

民衆の反対意見を無視できなくなったのです。

 

その後ワシントン軍縮会議で日中の話し合いがもたれ、日本は山東省の権益の一部を手放しました。

 

 

②五・四運動は続く

この後も、中国国内における抗日運動は続いていきます。

 

また五・四運動の影響下で生まれた中国共産党もだんだんと力をつけていき、中華人民共和国の成立につながります。

 

また現在、中国で5月4日は青年の日になっています。

 

各地で青年が中心になって記念行事や、ボランティア活動が盛んにおこなわれているようです。

 

五・四運動の語呂合わせ

 

同じ年に起きた韓国での独立運動の三・一独立運動と間違えないようにしましょう。

 

「いくいくちょーさん中腰で」

(1919 朝 三 中 五・四)

 

と覚えましょう。

 

ちなみに、五・一五事件は1932年の首相暗殺事件です。間違えないようにしましょう。

 

まとめ

 五・四運動は1919年に起きた反日・反帝国主義の運動。

 デモ・ストライキの他不買運動も(日貨排斥)。

 中国全土に広がりを見せた運動によって、中国はヴェルサイユ条約の調印を拒否。ここから抗日運動が続く。

 五・四運動から中国共産党が生まれ、現在の中国に至る。

 

参考文献:宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族 (角川文庫)

 伊藤 純  (), 伊藤 真  ()

 

映画にもなった宗家の三姉妹の話です。彼女たちは中国の近現代史を動かした男性にそれぞれ嫁ぎ、激動の時代を生き抜いていきます。

人物を軸にして歴史を見ていくと大きな流れがわかりやすく、おすすめです。