【ワシントン会議とは】簡単にわかりやすく解説!!条約締結の背景や内容など

 

花の都パリの次はアメリカのワシントン。戦争のあとは会議ばかりです。

 

第一次世界大戦後のアジア太平洋地域をどうするのか、1921年ワシントンで会議が始まります。

 

今回は、そんな『ワシントン会議』についてわかりやすく解説していきます。

 

ワシントン会議とは?

(1921年 ワシントン会議の様子 出典:Wikipedia

 

 

ワシントン会議とは、1921年(大正10年)第一次世界大戦後に行われた国際軍縮会議のことです。

 

会議はアメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱により行われ、ワシントンD.C.で開かれました。

 

会議後はワシントン体制というアジア太平洋地域の新秩序が出来上がりました。

 

ワシントン会議が行われた背景

(パリ講和会議の首相代表者ら)

 

 

2年前のヴェルサイユ会議(パリ講和会議)では、山東問題をはじめアジアや太平洋の諸問題はそのままの状態でした。

 

 

この頃、アメリカは防衛上の理由から太平洋における日本海軍の拡大阻止をねらっていました。

 

また、大戦中から続いていたの本の中国進出は、中国を市場として狙っていたアメリカ(門戸開放政策)と相いれないものでした。

 

日米をはじめ各国は戦後の不景気のなかで軍事費の負担に苦しんでおり、新しい体制を作って軍事費を減らすことが求められていたのです。

 

ワシントン会議の目的

①太平洋の問題

ヴェルサイユ条約によって南洋諸島パラオやマーシャルの委任統治権を得た日本は太平洋に足がかりを得ました。

 

この島々はアメリカ領フィリピンとハワイの間に位置していたため、日本に脅威を覚えていたアメリカは多国間条約による太平洋の安定をはかったのです。

 

②山東省問題の解決

山東省のドイツ権益について、ヴェルサイユ条約では日本に帰属することが明記されましたが、中国では反対運動(五・四運動)がおこり、米仏英も日本が中国に進出することを良く思っていませんでした。

 

 

 

山東問題に限らず、中国をめぐって列強が競い合うことは、世界を不安定にさせかねませんでした。

 

日清、日露の戦争に勝ち、第一次世界大戦でも被害をほとんど受けなかった日本が中国に勢力を拡大しすぎていると考えられたのです。

 

大国間の勢力均衡、つまりは日本を牽制するため、山東省はもともとの約束通り中国に返還されることになりました。

 

③軍縮

総力戦であった第一次世界大戦の影響で各国は不景気に陥っていました。

 

戦争の影響が少なかった日本も大戦バブルがはじけて企業の倒産が相次いでいました。

 

それにもかかわらず、軍艦の建造競争が止まらず各国は軍事費の負担に悩んでいました。

 

軍縮は1国だけではできません。国際的な協調が求められていたのです。

 

この条約で主力艦の10年間の建造禁止が決められましたが、補助艦は無制限であったため、各国は制限内で高性能の軍艦を作りつづけました。

 

ワシントン会議の内容

 

この会議には、アメリカ・日本・フランス・イギリス・イタリア・中華民国・ベルギー・オランダ・ポルトガルの計9カ国が参加しました。

 

ここからは会議の結果、締結された条約の内容を見ていきましょう。主に3つの条約が結ばれました。

 

①四か国条約

四か国条約は、日英米仏による太平洋における各国の権益を保証した条約です。

 

これによって日英同盟は破棄されました。

 

 

②ワシントン海軍軍縮条約

ワシントン海軍軍縮条約は、日英米仏に伊を加えた5か国で締結され、主力艦の保有比率が定められました。(米英5、日本3、仏伊1.67)

 

この条約によって各国とも主力艦は10年間建造中止になりました。

 

 

③九か国条約

九か国条約は、日英米仏伊に中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルを加えた9か国で締結され、中国の領土の保全・門戸開放を求めました。

 

日本の中国に置ける特殊地位は否認され、石井・ランシング協定は意味を失って破棄、山東還付条約が締結されました。

 

 

この3つの条約は列強の中国での勢力争いを防ぎ、また台頭しつつあった日本の中国進出に歯止めをかけるものでした。

 

 日本の外交姿勢『協調外交』

(幣原喜重郎 出典:Wikipedia

 

 

ワシントン会議の内容は日本の中国進出に歯止めをかけ、軍艦の建造に制限をかけるものでしたが、日本はこれを受け入れました。

 

大戦後の平和を求める気運があったこと、二十一か条の要求シベリア出兵など対外的に強硬な政策が外国はもちろん、国内でも評判が良くなかったことが背景にあります。

 

 

また、大戦景気のあとの不況と緊縮財政で軍事費の削減が必要だったのです。

 

米英に穏健なこの外交政策を協調外交といいます。

 

この後も日本は協調路線を取り、後を継いだ外相の幣原喜重郎の名前を取って幣原外交とも呼ばれます。

 

ワシントン体制

 

 

ワシントン会議によるアジア太平洋地域の新秩序をワシントン体制といいます。

 

太平洋における領土争いの禁止(四か国条約)、中国大陸における門戸開放機会均等の原則と中国の主権尊重(九か国条約)によってアジアでの日本の進出が抑えられることになりました。

 

しかし、その後も日本は中国での権益を少しづつ拡大し、日中戦争へつながっていきます。

 

 

まとめ

 ワシントン会議とは、1921年(大正10年)第一次世界大戦後に行われた国際軍縮会議のこと。

 ワシントン会議により「四か国条約」「ワシントン海軍軍縮条約」「九か国条約」が結ばれた。

 日本は会議において協調外交を取った。

 会議後はワシントン体制というアジア太平洋地域の新秩序が出来上がりました。

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ロンドンではない!

海軍軍縮条約は1930年にもロンドンで結ばれています。

・ワシントンは主力艦の保有比率

・ロンドンは補助艦の制限

です。

間違えないようにしましょう!

また、この会議は年をまたいで行われたので要注意。1921年の四か国条約も1922年の海軍軍縮条約、九か国条約も同じ会議で決まっていますよ。

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おまけ!

①石井・ランシング協定

1917年に全権大使 石井菊次郎が国務長官ロバート・ランシングと取り交わした協定です。

 

日本の中国での特殊権益を認める代わりにアメリカの主張する門戸開放、機会均等の原則を認めました。

 

門戸開放・機会均等の原則とは、ある地域(この場合は中国)においてどの国の人間も自由に商業活動や工業活動ができるようにしよう!という原則です。

 

主にカリブ海や太平洋で植民地を増やしていたアメリカは、中国国内に租借地や鉄道ももっていませんでした。

 

アメリカは中国を市場とみて経済的な進出を狙っていました。

 

石井・ランシング協定は日本とアメリカの原則と権益をお互いに認め合い、利害を調整するものでした。

 

②山東省の権益のその後

山東省の権益の一部(鉄道の権利や鉱山の権利)などはワシントン会議のあとも残されました。

 

しかし中国政府はこの約束を守る気がまったくなく、また民衆の反発もものすごく、名目上の権利にすぎませんでした。

 

日本の山東進出はワシントン会議後いったん収まりますが、1927年には国内の不況を打開するため再び山東省に出兵するのです。

 

③全権主席「加藤友三郎」

ワシントン海軍軍縮条約を締結した時の全権主席は海相加藤友三郎でした。

 

加藤友三郎は日露戦争時に東郷平八郎の参謀長を務め、八八艦隊を推進した人物として知られます。

 

もともと軍拡路線を取っていた加藤ですが、ワシントン会議で海軍の縮小と対米6割の艦隊比率を受け入れます。

 

彼は日本の現状を冷静に分析し、米国相手の戦争が現実的に無理であるからには、この比率を受け入れて戦争を避けることが重要である、と述べています。