【蝦夷(えぞ)と蝦夷(えみし)の違い】わかりやすく解説!!意味や特徴など

 

今回は、同じ漢字を書いて違う読み方をする『蝦夷(えぞ)と蝦夷(えみし)の違い』についてわかりやすく解説していきます。

 

蝦夷(えぞ)と蝦夷(えみし)の違い

 

 

「えぞ」と「えみし」は漢字が同じでも意味するものが全く違うので、しっかり確認しましょう。

それぞれの違い

✔ 蝦夷(えぞ)……北海道またはそこに住むアイヌ民族のこと。

鎌倉時代以降、「蝦夷」と出てきたら北海道という土地かアイヌ民族のことを指します。北海道を指す言葉として蝦夷地(えぞち)、蝦夷ヶ島(えぞがしま)が使われることもあります。

蝦夷(えみし)……奈良時代~平安時代、朝廷に従わなかった東北地方の人々のこと。

朝廷の貴族たちからは異民族のようにみられていましたが、実際は民族的には同じ。ただ自分たちに従わないことから異端扱いしていただけと言われています。

 

ここからは「えぞ」と「えみし」について、それぞれについて詳しく解説していきます。

 

蝦夷(えぞ)について詳しく

(アイヌ民族 出典:Wikipedia

 

 

日本の先住民族といわれ、古くから北海道を中心とした地域に住んでいたアイヌ民族の人々。

 

大和民族である和人からは、別の文化をもつ違う国の異民族という認識で、差別的な意味合いも込めて蝦夷(えぞ)と呼ばれていました。

 

彼らの住む北海道は蝦夷地(えぞち)蝦夷ヶ島(えぞがしま)とも呼ばれ、日本ではなく別の国として考えられていました。

 

①蝦夷(えぞ)との交易

14世紀(室町時代)になると、津軽(青森)の十三湊(とさみなと)の豪族、安藤氏が蝦夷地のアイヌの人々と交易をするようになりました。

 

交易品は、昆布や鮭、アザラシの毛皮などの北海道の特産物でした。

 

②コシャマインの乱と松前氏

15世紀(室町時代)には、蝦夷地の南部に日本列島から和人が次々進出。交易が盛んになるにつれ、和人とのトラブルも増えていきました。

 

1456にアイヌの少年が和人の鍛冶屋に小刀を注文したところ、その値段と出来栄えをめぐって小競り合いとなり、その結果、鍛冶屋がアイヌの少年を殺してしまう事態にまで発展しました。

 

この事件をきっかけに、アイヌの首長コシャマインを中心に団結し、反乱を起こました。1457年コシャマインの乱です。

 

しかし、善戦したもののコシャマインは討ち取られ、アイヌは敗北しました。

 

コシャマインの乱の鎮圧にあたった蠣崎氏は、その後、松前という名に改めました。

 

江戸時代になると、徳川家康からアイヌとの交易の独占権が与えられ、蝦夷地の南部に領地をもつ松前藩として、蝦夷地唯一の大名となりました。

 

③シャクシャインの戦い

アイヌとの交易を独占した松前藩は、多くの利益をあげました。

 

アイヌの人々にも多くの利益があれば問題はないのですが、そうではなかったのです。

 

松前藩はアイヌの人々から大量の鮭や昆布、砂金などを手に入れ、その代わりに渡すのはわずかな米や食器などの日用品でした。

 

この松前藩の不平等なやり方にアイヌの人たちの怒りや不満は爆発寸前。そしてとうとう1669アイヌの首長シャクシャインが挙兵しました。(シャクシャインの戦い

 

しかし、鉄砲を持っていた松前藩には太刀打ちできず、松前藩からの提案で和解することになりました。その和解の席で、シャクシャインは不意をつかれて殺されました。

 

その後、アイヌの人々は松前藩に支配されるようになりました。

 

④明治維新

(1930年代 アイヌの夫婦 出典:Wikipedia)

 

 

1868年、明治新政府が設立された翌1869年。明治政府は蝦夷地を北海道に改め、日本に編入しました。

 

その後、アイヌの人々の独自の文化を尊重することなく、どんどん開拓をすすめ、アイヌの人々の仕事や生活の場所をうばっていきました。

 

 

⑤アイヌ文化振興法の制定

1997年、日本政府は、アイヌの伝統を守り、アイヌの人々が民族としての誇りをもって生活できる社会の実現を目指すため、アイヌ文化振興法を制定しました。

 

日本政府は、法的にアイヌ民族が日本の少数民族であることは認めたものの、先住民であることまでは記載しませんでした。

 

蝦夷(えみし)ついて詳しく

 

 

奈良時代や平安時代の人々にとっての“日本”とは、朝廷のあった奈良や京都から西、つまり、西日本エリアのことでした。

 

そのため、朝廷より遠く離れた東北地方に住み、朝廷に従わない人々を蝦夷(えみし)と呼び、西日本の人たちは見下し、差別していました。

 

①朝廷の蝦夷征討

奈良時代の少し前から平安時代の初期頃まで、朝廷に従わずに抵抗をつづける蝦夷(えみし)を服従させるため、東北地方に軍を送り侵略を進めました。

 

これを蝦夷征討(えみしせいとう)といいます。

 

朝廷の支配下に入り服従した蝦夷(えみし)は俘囚(ふしゅう)と呼ばれました。

 

では、時代ごとにどのように蝦夷征討が行われたのか見てみましょう。

 

②奈良時代以前

(阿部比羅夫の錦絵 出典:Wikipedia)

 

 

658年、斉明天皇は、阿部比羅夫(あべのひらふ)を東北へ派遣し、秋田地方の蝦夷を服従させました。

 

③奈良時代

奈良時代になると朝廷の蝦夷支配への意欲はいっそう強まりました。

 

724年、太平洋側に多賀城(宮城)を築き、陸奥国府(むつこくふ)と鎮守府(ちんじゅふ)を置きました。

 

陸奥国は現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県一帯。国府は朝廷から派遣された国司が政務を行う場所、鎮守府は軍事機関です。

 

つまり、朝廷の蝦夷支配のための行政・軍事の拠点というわけです。

 

780年、この朝廷からの支配に反発し、伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)をリーダーにして反乱がおき、一時は多賀城を攻めて落とすところまで善戦しました。

 

呰麻呂は朝廷に服従した蝦夷つまり俘囚で、陸奥国上治郡の郡司のトップとして朝廷の仕事をしていた人物です。

 

789年、桓武天皇は、紀古佐美(きのこさみ)を征夷大将軍に任命し、北上川中流の胆沢地方(岩手県奥州市)の蝦夷を制圧しようと5万人の大軍を送りました。

 

しかし、この胆沢地方をまとめる蝦夷のリーダー阿弖流為(アテルイ)の活躍により朝廷軍は惨敗。

 

この頃の征夷大将軍は、蝦夷征討遠征軍の最高司令官のことです。

 

④平安時代

(坂上田村麻呂 出典:Wikipedia)

 

 

平安京に遷都後、桓武天皇が次に蝦夷に送りこんだのは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)でした。

 

797年に田村麻呂を征夷大将軍に任命し、4万人の朝廷軍を東北地方に派遣。阿弖流為(アテルイ)も今後ばかりは降伏せざるをえませんでした。

 

そして、阿弖流為は捕虜として都に連れていかれ、河内(大阪)で処刑されてしまいました。

 

田村麻呂は、平定した胆沢地方に胆沢城を築き、鎮守府を多賀城から移転。翌803年はさらに北上し、志波城(岩手県盛岡市)を築きました。

 

こうして北上川の上流地域まで朝廷の支配がおよぶことになりました。

 

しかし、蝦夷征討は多くの時間と兵士が必要であるうえ、平安京では社殿や宮殿などを造る工事が進められ、こちらでもお金も人も必要でした。

 

そしてこれらの負担はすべて農民にのしかかっていたため、桓武天皇は蝦夷征討と平安京造営の二大事業をここで打ち切ることにしました。

 

その後、811年に嵯峨(さが)天皇文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を征夷大将軍として派遣し、田村麻呂が平定した志波城よりさらに北部の蝦夷を制圧。

 

これで、東北地方全域の蝦夷をほぼ服従させ、朝廷の支配下に置きました。

 

まとめ

・蝦夷(えみし)とは、奈良時代や平安時代、朝廷に従わなかった東北地方の人々のこと。

・朝廷は、7世紀末~9世紀初頭にかけ、東北地方に支配を広げるため蝦夷征討を行った。

・朝廷に服従した蝦夷を俘囚と呼ぶ。

・797年征夷大将軍の坂上田村麻呂は蝦夷のリーダー阿弖流為を破り胆沢城を築いた。

・蝦夷(えぞ)とは北海道またはそこに住むアイヌ民族のこと。

・和人との交易のトラブルがきっかけで1457年コシャマインの乱が起こった。

・江戸時代、松前藩に徳川家康からアイヌとの交易の独占権が与えられた

・1669年シャクシャインの戦い後、アイヌの人々は松前藩に支配された。

・1869年明治政府は蝦夷地を北海道に改め、日本に編入した。

・奈良時代~平安時代に日本史に登場する蝦夷は「えみし」、鎌倉時代以降は「えぞ」。