「北面(ほくめん)の武士」「西面(さいめん)の武士」「滝口(たきぐち)の武士」。

 

これらは名前は似ていますが、創設者や創設理由が異なります。

 

今回は、これらややこしい『北面の武士、西面の武士、滝口の武者の違い』についてご紹介していきます。

 

北面の武士・西面の武士・滝口の武者の違い

 

まずはじめに北面の武士、西面の武士、滝口の武士の違いについてについてまとめておきます。

 

 

それぞれの違い

 

✔ 北面の武士

・11世紀末の平安時代、上皇に仕えながら上皇の警備を行っていた武士たちのこと。

・創設者は白河法皇で、主に寺の強訴に対応するために創設される。

・院御所の北面に詰所があったため北面の武士と呼ばれるようになった。

・鎌倉時代の承久3年(1221年)に起きた承久の乱以降、規模は縮小したものの明治維新までは名目として存続した。

 

✔ 西面の武士

・13世紀初頭の鎌倉時代、上皇に仕え上皇の警備を行っていた武士たちのこと。

・創設者は後鳥羽上皇で、鎌倉幕府に対抗する軍事力として創設される。

・院御所の西面に詰所があったため西面の武士と呼ばれるようになった。

・鎌倉時代の承久3年(1221年)に起きた承久の乱後、廃止となった。

 

✔ 滝口の武者

・9世紀末の平安時代内裏、天皇の警護を行ってた武士たちのこと。

・創設者は蔵人所で内裏の警護のために創設される。

・滝口近くの渡り廊下を詰所としていたため滝口の武士と呼ばれるようになった。

 

 

次に北面の武士、西面の武士、滝口の武士となった武士を紹介します。

 

  • 北面の武士…平正盛平忠盛源為義源義朝藤原秀康など
  • 西面の武士…河野通政藤原秀康藤原秀澄藤原秀能など
  • 滝口の武士…平将門、斎藤時頼長谷部信連など

 

ここからは、「北面の武士」「西面の武士」「滝口の武士」それぞれについて詳しく解説していきます!

 

北面の武士について詳しく解説!

 

北面の武士とは、平安時代、上皇に仕えながら上皇の警護を行っていた武士たちのことを指します。

 

①白河法皇によって創設

平安時代中期にあたる康和年間(1099年〜1104年)頃に白河法皇によって、主に寺の強訴などに対応するために創設されました。

 

院御所の北面(北側にある部屋)を詰所としていたことから北面の武士と呼ばれるようになりました。

 

軍事貴族から構成される

白河法皇によって創設された北面の武士は創設当初は男色の相手をする籠童や主君のそばで仕える近習など、白河法皇と関係の深い者たちによって構成されていました。

 

しかし、次第に武士の母体となる軍事を専門に行う軍事貴族も加わるようになります。

 

北面の武士となった軍事貴族は将軍クラスの者が多く、ある程度の数を誇る武士団を従えていました。

 

そのため北面の武士の規模は急増し元永元年(1118年)頃には1000人以上の規模となっていました。

 

しかし、次第に北面の武士の数は急増していくこととなりましたが、その地位は低下していくこととなりました。

 

また、白河法皇は北面の武士から次々と検非違使に抜擢していきました。

 

検非違使とは平安時代初期に創設された治安維持のための役職のこと。現在の警察官、裁判官のようなものです。

 

白河法皇は次々と北面の武士から検非違使を生み出し、また検非違使に指示を出す検非違使別当を介さずに直接指示を行っていたため、検非違使別当の存在意義は失われていくこととなりました。

 

③承久の乱以降、規模は縮小

白河法皇によって創設された北面の武士ですが、鎌倉時代の承久3年(1221年)鎌倉幕府と朝廷の対立である承久の乱で朝廷が敗北したため、以降その規模は縮小していくこととなります。

 

 

そして、御所の警備隊として活動を行うようになりました。

 

室町時代以降は機能すら失うこととなります。

 

しかし、明治維新までは名目として存続していたとされ、江戸時代の北面の武士として三上景文があげられます。

 

④北面の武士の中には上北面と下北面があった

北面の武士は上北面、下北面の2種類がありました。一

 

般的に北面の武士と認識されるのは下北面です。

 

⑤上北面

上北面は御所の殿上の2間が詰所となっており、上北面は殿上の間に昇ることが許された官位四位・五位の諸大夫で構成されていました。

 

上北面の諸大夫層の多くは太政大臣左大臣右大臣大納言中納言参議といった国政を担う位の公卿に昇進する者もいたとされています。

 

⑥下北面

上北面が官位四位・五位の諸大夫層で構成されるのその一方で、下北面は官位六位の武士が中心となって構成されていました。

 

御所の北にある五間屋が詰所となっていました。

 

一般的に北面の武士とされるのは上北面ではなく下北面となっています。

 

西面の武士について詳しく解説!

 

西面の武士とは鎌倉時代、上皇に仕え上皇の警備を行っていた武士たちのことを指します。

 

①後鳥羽上皇によって創設

後鳥羽上皇鎌倉幕府に対抗する軍事力として正治2(1200)頃に創設しました。

 

創設理由はこの他にも鎌倉幕府倒幕のために創設された、武芸を好んでいた後鳥羽上皇が勝手に創設したなどがあげられます。

 

院御所の西面(西側にある部屋)に詰所があったため西面の武士と呼ばれるようになりました。

 

②御家人、武士から構成される

西面の武士は主に京都にいる御家人、関東の御家人、また有力御家人や実力のある武士たちによって構成されていました。

 

この頃は白河法皇が創設した北面の武士がすでに存在していたため、西面の武士は北面の武士とともに軍事活動を行っていました。

 

③承久の乱後、廃止

鎌倉時代の承久3年(1221年)鎌倉幕府と朝廷の対立である承久の乱においては北面の武士とともに上皇軍(朝廷側)につきました。

 

しかし、承久の乱で朝廷が敗北、首謀者であった後鳥羽上皇が配流されると同時に西面の武士は廃止となりました。

 

滝口の武士について詳しく解説!

 

滝口の武士とは滝口の武士とは平安時代内裏、天皇の警護を行ってた武士のことを指します。

 

①蔵人所によって創設

内裏の警護をもともと行っていたのは近衛府と呼ばれる人々でした。

 

しかし、平城上皇(桓武天皇の第1皇子)と嵯峨天皇(桓武天皇の第2皇子)が対立した薬子の変を機に天皇の秘書のような役割を果たすた蔵人所が設置されます。

 

宇多天皇の時代(889から897)、その蔵人所から内裏の警護を行う滝口の武士が創設されました。

 

内裏には御殿や塀などに沿って庭へと流れる水(滝口)が流れており、その水が流れ始めるスタート地点のことを落ち口と言います。

 

清涼殿東庭北東の落ち口の近くにある渡り廊下を詰所としていたため滝口の武士と呼ばれるようになりました。

 

射芸に優れた摂関家や公家、侍などから構成される

滝口の武士の任命は天皇の即位の際に行われていたとされ、射芸に優れた摂関家や公家、侍などが選ばれました

 

滝口の武士として有名なのは平将門です。

 

 

当時左大臣であった藤原忠平に仕えていた平将門は滝口の武士に任命され「滝口小二郎」と名乗りました。宇多天皇の頃に創設された滝口の武士は当初、定員10名でしたが、寛和元年(985年)には15名、白河天皇の頃になると30名程となりました。

 

滝口の武士は鎌倉時代まで続いたとされています。

 

まとめ

 北面の武士とは11世紀末の平安時代、白河法皇によって創設された上皇の警護を行っていた武士たちのこと。院御所の北面に詰所があったため北面の武士と呼ばれるようになった。承久の乱後、規模は縮小するも明治維新まで名目は存続した。

 西面の武士とは13世紀初頭の鎌倉時代、後鳥羽上皇によって創設された上皇の警護を行っていた武士たちのこと。院御所の西面に詰所があったため西面の武士と呼ばれるようになった。承久の乱後、廃止となる。

 滝口の武士とは9世紀末の平安時代、蔵人所によって創設された内裏の警護を行う武士たちのこと。滝口近くの渡り廊下を詰所としていたため滝口の武士と呼ばれるようになった。鎌倉時代まで続いたとされる。

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