NHK2020年大河ドラマのテーマである「戦国時代に活躍した明智光秀(あけちみつひで)」。

 

明智光秀の生涯を描いた大河ドラマではあるものの、明智光秀だけではなく、その周辺の人々も大活躍する大河ドラマとなっています。

 

 

そんな大河ドラマ『麒麟がくる』では、若かりし頃、人質として駿河と尾張を行き来した徳川家康の登場が決定します。

 

なんと、織田信長と同盟を結んだきっかけともなり、かつ徳川家康が敗北したことで大変有名な三方ヶ原の戦いも取り扱うようです。

 

徳川家康は三方ヶ原の戦いを機に、敗北の戒めとして「しかみ像」と呼ばれる肖像画を描かせたということでも有名なんです。

 

しかみ像とは一体何でしょうか?そして、徳川家康の身に何が起きたのでしょうか?気になりますよね。

 

今回は、大河ドラマ『麒麟がいく』でも取り上げられること間違いなし!『三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)』について、ウワサの脱糞事件も絡めながら簡単にわかりやすく解説していきます。

 

三方ヶ原の戦いとは

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(元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖 出典:Wikipedia

 

三方ヶ原の戦いとは、1573年に三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方ヶ原町付近)で勃発した、甲斐国(現在の山梨県)・武田信玄と徳川家康・織田信長同盟軍の間で勃発した大きな戦のことです。

 

武田信玄は、足利義昭が発布した織田信長討伐令に応える形で、出陣。狙いを付けたのが浜松城でした。

 

徳川家康は武田信玄の浜松城侵攻を予見し、当時同盟を組んでいた織田軍と共に、武田信玄を籠城戦出迎えうつ準備を行いますが、作戦を変更し、三方ヶ原を通過する武田信玄の軍勢を背後から狙おうとしたのでした。

 

しかし徳川家康の予想は外れ、武田信玄の軍勢は、なんと徳川軍を待ち構える布陣を取ったのです。

 

これにより三方ヶ原の戦いは、開始わずか2時間程度で徳川家康の敗北という結果となります。

 

三方ヶ原の戦いが起こった背景

 

三方ヶ原の戦いが起きた背景とは、いったい何でしょうか?

 

この時代は、時代の転換期ともされており、まさに群雄割拠の時代でした。

 

そんな中、武田氏と織田・徳川同盟の対立構造が生まれた理由は2つあります。

 

①武田信玄の方針変換

(武田信玄 出典:Wikipedia)

 

まず最初に挙げられるのは、武田信玄の方針変換です。

 

川中島の戦いを境に武田信玄は今後の方針を転換し、これまで同盟関係にあった今川氏が治めていた駿河国(現在の静岡県中部)に進行を開始します。

 

 

②織田信長と徳川家康が同盟関係を結ぶ

また、同時期に今川氏当主の今川義元が、桶狭間の戦いによって織田信長によって滅亡すると、今川氏についていた三河国の松平元康(徳川家康)が織田信長と同盟を結び始めます。

 

 

これにょり、徳川家康が独立を果たしています。

 

そして、さらにタイミングが重なります。

 

織田信長は当時、室町幕府最後の15代将軍・足利義昭により織田信長討伐令を出されて、多くの戦国武将から命を狙われていました。

 

これは武田信玄にとってまたとないチャンスでした。

 

こうして織田信長と同盟を組んでいた徳川家康が治める徳川領の遠江国と三河国に、じわじわ侵攻を開始していくのでした。

 

三方ヶ原の戦いの経過と結果

(酒井忠次時鼓打之図 出典:Wikipedia)

 

徳川家康を討ち取ろうとする武田信玄をみた徳川家康は、籠城作戦を開始します。

 

しかし、武田信玄は徳川家康らが籠城する浜松城をなんと無視!別の拠点である堀江城を目指して進軍をするのです。

 

そのため急遽作戦を変更した徳川家康だったのですが、これは武田信玄の罠だったのです。

 

①まんまと策にはまる徳川家康①~侮辱は許さん~

武田信玄が浜松城を素通りしたことによって、徳川家康は作戦を変えざるを得ませんでした。

 

しかも、素通りというのは当時侮辱も同然。そのため考えたのが、武田信玄の背後を突いて攻撃しようというものでした。

 

しかし、徳川家康の読みは甘かった。武田信玄にとっては、この挑発行為すらも作戦だったのです。

 

②まんまと策にはまる徳川家康②~武田信玄に待ち構えられる~

こうしてまんまと挑発に乗ってしまった徳川家康は、鶴翼の陣で武田信玄の背後を取ったかのように三方ヶ原に布陣します。

 

しかし到着してみると、武田信玄は徳川家康の2倍もの軍勢で「魚鱗の陣」を取って徳川軍勢を待ち構えていたのです。

 

徳川家康の取った鶴翼の陣は、鶴が翼を広げるような陣形をとるため、伝達事項に遅れが生じるということが弱点となっています。

 

これを利用した武田軍の挑発に乗ってしまった徳川軍勢の一部が、命令なしに攻撃を仕掛けてしまうのです。

 

③まんまと策にはまる徳川家康③~敗走~

最初は織田軍の助力もあって徳川軍が優位に思われましたが、兵力も圧倒的な差を誇る武田軍との戦いに徳川家康の家臣らは次々と倒されていきます。

 

最終的に陣形は壊され、徳川家康は討ち死に寸前まで追いつめられるのです。

 

こうして三方ヶ原の戦いは、討ち死に寸前の徳川家康の大敗北という結果で終了します。

 

三方ヶ原の戦いのその後

 

敗走した徳川家康は、本田忠勝らの力を借り、命からがら浜松城へと逃げ帰るのでした。

 

命が助かった徳川家康は、空城の計という作戦を実行します。浜松城の城門を開放し、篝火を焚きました。

 

これを見た武田軍は、計略なのか本当に人がいないのか判断が付かなかったのか、浜松城を攻めることなく、兵を引き上げたそうです。

 

一方の徳川家康は、安らかに眠ったとされています。

 

人生最大の恥!徳川家康の”脱糞”疑惑

(徳川家康 出典:Wikipedia)

 

そしてここで、三方ヶ原の戦いと切っても切れない、徳川家康の恥ずかしい!?エピソードをご紹介しましょう。

 

この三方ヶ原の戦いで大変有名なのは、大敗をした徳川家康が、脱糞しながら逃げ帰ったというエピソードです。

 

三方ヶ原の戦いでは、野戦が大得意で兵力が自分のそれより2倍もあった武田信玄の軍勢と戦うことになってしまった徳川家康。

 

家臣が自分の身代わりとなり、次々と倒されて行く光景を見ていた徳川家康が、恐怖に耐えることができずに脱糞しながら浜松城へ逃げ帰った、というものです。

 

徳川家康の逃げっぷりと、脱糞で汚れた下着を見た家臣から、憂いの言葉を受けた徳川家康ですが、なんと苦し紛れの言い訳をかましたんだとか。その言い訳とは、「これは腰に味噌をつけていたのだ!」というものです。

 

徳川家康は、心の底をなかなか見せることがないことから「タヌキオヤジ」と揶揄されていますが、こういうエピソードがあるとなると、そんな「タヌキオヤジ」も憎めないですよね。

 

①脱糞事件から生まれた「しかみ像」

そう、冒頭で紹介した「しかみ像」とは、この脱糞事件がきっかけで描かれたのです。

 

脱糞してしまった情けない姿変なポーズをしたこの肖像画は、自分の経験をばねにするためにあえて残させたとされています。

 

(徳川家康三方ヶ原戦役画像 出典:Wikipedia)

 

さらに、「しかみ像」が描かれた後、徳川家康は家臣たちに、「ふんどしは白より黄色のほうが汚れが目立たない」とアドバイスをしていたんだとか。

 

②徳川家康の脱糞事件は三方ヶ原の戦いではない!?

実はこの徳川家康”脱糞”事件は、明確に資料が残されていないのです。

 

なんと、三方ヶ原の戦いで脱糞事件があったことが記されたのは、昭和になってからなんだとか。

 

自軍の2倍もある武田軍勢、しかも相手は野戦が得意、さらに家臣が次々と倒れていくのを目の当たりにしたら、それは人間だれしも極限状態に追いやられてしまいますし、このような生理現象を起こしかねません。

 

しかし、この”脱糞”事件は、三方ヶ原の戦いではなく、なんと別途起こった武田軍と徳川軍の戦である一言坂の前哨戦(ひとことさかのぜんしょうせん)のこととされているんです。

 

③一言坂の前哨戦の”脱糞”話?

この一言坂の前哨戦というのは、遠江国(現在の静岡県西部)の二俣城(ふたまたじょう)に迫る武田軍に対抗すべく、徳川家康の重臣である本田忠勝を派遣した戦のことです。

 

Honda Tadakatu.jpg

(本田忠勝 出典:Wikipedia)

 

本田忠勝は最強の武将といわれていますが、さすがに多勢だった武田軍を前にして、撤退を余儀なくされました。

 

肝心の脱糞エピソードはというと、江戸時代末期ごろに記された『三河後風土記』の巻十三に描かれています。

 

『三河後風土記』自体も、江戸時代末期ごろに製作されていることから、こちらのエピソードも脚色の可能性があります。

 

しかし、この一言坂の前哨戦で、徳川家康の出陣がなかったともいわれており、真意は定かではありません。

 

いずれにせよ、徳川家康が、三方ヶ原の戦いで敗北を喫したことに変わりはありません。

 

この敗北から学んだことにより、徳川家康は晩年に江戸幕府を開府するまでの実力をつけ、人生を大逆転させたのです。

 

まとめ

まとめ

 

 三方ヶ原の戦いは、武田軍と徳川・織田同盟軍による大きな戦だが、開戦僅か2時間で勝敗が決まった戦でもある。

 

 野戦が得意かつ2万もの軍勢を率いた武田軍が、三方ヶ原で少数の徳川軍を待ち構える形となってしまい、あっけなく勝敗が決まる。

 

 この時に徳川家康が脱糞して逃げ帰ったというエピソードが有名である。

 

 脱糞して逃げ帰った徳川家康に対して、家臣が憂いの言葉をかける物の『これは味噌だ』と言い訳をする徳川家康。

 

 脱糞して逃げ帰ったという自分の恥を描かせたのが、”しかみ像”と呼ばれる肖像画である。

 

 ”しかみ像”を描かせた後に、家臣に黄色いふんどしを薦めるという、ユニークな後日談も残されている。

 

 徳川家康の三方ヶ原の戦い後の脱糞事件は、実は確固たる資料が存在せず、実は一言坂の前哨戦だったのではないか、とされている。

 

 一言坂の前哨戦では、重臣の本田忠勝を派遣しており、自身は出陣していなかったという説もあるので、脱糞事件の真意は定かではない。

 

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