明治初期に起きた「萩の乱」はほとんどの教科書に載っている重大な事件ですが、あまりくわしくは書かれていません。

 

のちの西南戦争にもつながる萩の乱、その中心人物や原因はなんだったのか?

 

今回は、そんな『萩の乱(はぎのらん)』についてわかりやすく解説していきます。

 

萩の乱とは?

(萩の乱 出典:Wikipedia

 

 

萩の乱とは、1876(明治9)年10月28日に山口県の萩という場所で不平士族が起こした反乱です。

 

明治新政府の重要人物だった前原一誠(まえばらいっせい)が起こしたもので、わずか1週間ほどで鎮圧されました。

 

のちに起きた西南戦争へと続く、一連の不平士族の反乱のひとつです。

 

萩の乱が起きた原因

①士族の不満増大

江戸幕府が倒れ、明治の新しい政府ができると武士は「士族」という新しい身分とされました。

 

そして急激に近代化を進める政府に士族たちの生活は激変。政府は少数の官僚による独裁のような形だったため、国内では政府に反抗するムードが高まっていきます。

 

1874(明治7)年、政府の中心メンバーだった江藤新平が「佐賀の乱」という大規模な反乱を起こしますが、すぐに鎮圧されてしまいます。

 

 

ついに秩禄処分によって従来の収入がなくなり、廃刀令によって武士の魂ともいえる刀を身につけることも禁止されました。

 

 

こうして士族たちは不平不満をためこむことになりました。

 

②前原一誠の経歴

こうした不満を持った士族のリーダーに、前原一誠がいました。

 

(前原一誠 出典:Wikipedia

 

 

長州藩士だった前原は、吉田松陰松下村塾(しょうかそんじゅく)で学び、松陰の死後は洋学を学びました。

 

 

高杉晋作らと挙兵すると藩の実権を掌握。戊辰戦争では参謀として活躍します。

 

明治維新後は越後府判事、参議、兵部大輔(軍隊のトップ)などの重要な役職につきました。

 

しかし兵部大輔となった前原は、前任の大村益次郎が進めようとしていた徴兵制の導入に反対でした。

 

徴兵制というのは従来のように武士が戦うのではなく、全ての階層の国民を兵士として軍隊を組織するという制度です。

 

つまり、これによって士族の特権がまたひとつ奪われることになります。

 

その結果、政府のトップである木戸孝允と対立。前原は1870(明治3)年に兵部大輔を辞職して故郷の萩に帰りました。

 

佐賀の乱のときには、動揺する士族たちの不満を抑えるために説得にあたったといいます。

 

③前原一誠の人物像

維新の三傑」といえば、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允(桂小五郎)の3人ですが、前原一誠は「維新の十傑」に数えられる人物です。つまり明治維新のベスト10に入るぐらいの功労者だったわけです。

 

 

戊辰戦争では会津と戦いましたが、会津に対して厳しい態度をとっていた長州藩の中で前原だけは会津に同情的で、藩主の松平容保の命を助けるなど寛大な処置を行いました。

 

越後府判事としては、新潟で貧しい農家の年貢を半分にしたり、信濃川の治水工事を行うなどの手腕を発揮しました。

 

性格は清廉潔白、民衆思いな人だったと言われます。

またかなり熱い人だったそうで、現代の「大河ドラマ」などでも熱血漢として描かれています。

 

師の吉田松陰からは、「才能は久坂玄瑞に及ばず、知識は高杉晋作に及ばないが、前原は人物としては完璧で久坂や高杉も及ばない」と人間性を評価されています。

 

人間的にはすごいマジメでいい人でも、能力では久坂や高杉に劣っていたということでもあるわけですが……。

 

その久坂や高杉、そして師の松陰は若くして死んだため、松下村塾への思いは強かったことでしょう。

 

そういうこともあって、温厚だった前原は不平を抱えた士族たちを見かねて反乱へと向かったのかもしれません。

 

萩の乱の内容

①士族の反乱に呼応

1876(明治7)年10月24日に熊本で「神風連(しんぷうれん)の乱」、同27日福岡で「秋月の乱」という反乱が起きました。

 

 

このニュースを聞いた前原や奥平謙輔らは同年28日、萩の旧藩校明倫館(めいりんかん)を拠点にして反乱を起こそうと計画します。

 

その結果200人余りが集まり、このメンバーで県庁を襲おうとします。このメンバーには前原をはじめとした松下村塾の元塾生が多く含まれていました。

 

ちなみに、のちに内閣総理大臣(第26代)となる田中義一も当時13歳で反乱に参加していました。

 

もちろん、たった200人ほどでは政府に勝てないことは前原もわかっていたとは思いますが、一連の士族の反乱が起きる中で、自分が動くことでこのムーブメントが全国的に広がればいいと考えていたのでしょう。

 

当時、薩摩にはやはり政府の役職を辞めて故郷に帰っていた西郷隆盛がいました。

 

もしこの時、西郷が動いていたら、萩の乱は全く違った展開になっていたかもしれません。

 

②萩の乱の鎮圧

しかし、県庁を襲うという計画は事前に政府側にバレてしまいました。

 

しかも期待していた薩摩の不平士族の反乱は起きず、アテが外れます。そうなると、わずか200名ほどの軍勢ではどうにもなりません。

 

前原は方針を転換。幹部5人だけで萩を抜け出して船で東京へ向かいました。何をするためかというと、天皇へ直訴するためです。

 

萩に残された軍勢はもはやおとりのようなものでした。

 

広島鎮台司令長官三浦梧楼(みうらごろう)らによって反乱は1週間ほどで鎮圧されてしまいます。

 

結局、前原らは悪天候のため東京にたどり着くこともできず、島根県で捕まってしまいました。

 

萩の乱の結果とその後

①前原一誠の最期

神風連の乱、秋月の乱もいずれも短期間で鎮圧。

 

前原が全国的に広がることを期待していた士族の反乱はあっさりと終わってしまいました。

 

前原ら首謀者は裁判にかけられ、12月3日に斬首刑となります。こうして前原一誠は42歳でその生涯を閉じました。

 

また、この乱には松下村塾も深くかかわっていたことから、塾頭の玉木文之進が責任をとって切腹。松下村塾は一時閉鎖となりました。

 

②西南戦争と自由民権運動

その翌年、ついに西郷隆盛が決起し、西南戦争が始まります。

 

 

萩の乱とは比較にならないほど激しい戦いとなりましたが、約7ヶ月ほどで鎮圧。西郷隆盛は鹿児島の城山で自刃するという結末になりました。

 

この西南戦争の終結をもって、明治政府による全国支配は確立されました。

 

これ以降、日本で大規模な内戦は起こっていません。

 

士族たちは武力で対抗しても無駄だということを悟り、これ以降は言論で政府に対抗するという道を選びます。そして、板垣退助を中心にした自由民権運動が勢いを増すことになるわけです。

 

 

なお、非業の死をとげた前原一誠でしたが、死後に従四位という位を贈られています。

 

まとめ

・萩の乱とは、1876(明治9)年10月28日に萩で起きた不平士族の反乱のこと。

・萩の乱の首謀者は明治維新の功労者だった前原一誠。

・神風連の乱や秋月の乱に呼応して反乱を起こした。

・その動きは全国に広がらず、わずか1週間ほどで乱は鎮圧された。

・首謀者の前原一誠らは斬首刑となった。

・西南戦争のあと、不平士族たちは自由民権運動へと向かう。

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