日本の帝国主義の芽生えとも言われている「二十一カ条の要求」。

 

今でも中国では屈辱の出来事として知られていますが、これは果たしてどのような要求だったのでしょうか?

 

今回は、『二十一カ条の要求』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

二十一カ条の要求とは?

(二十一カ条の要求 出典:Wikipedia

 

 

二十一カ条の要求とは、第一次大戦中に日本が中華民国(中国)に対して言った21個の要求のことです。

※対華21カ条要求とも呼ばれています

 

要求の内容は・・・

  •  日本のドイツ権益を継承を認める要求
  •  関東州と南満州鉄道の借りる権利を99年延長&南満洲・東部内蒙古の開放
  •  漢冶萍公司の日支合弁に関する要求
  •  中国沿岸の港湾や島々の他国への不割譲に関する要求
  •  中国全般にわたる希望要求

 

中国にとっては到底受け入れられる内容ではありませんでしたが、泣く泣く認めることになりました。

 

ここからは、二十一カ条の要求が出されるまでの背景や要求内容・その後など詳しく解説していきます。

 

二十一カ条の要求が出されるまでの背景

(第一次世界大戦 西部戦線のドイツ兵 出典:Wikipedia

 

 

時代は第一次世界大戦の真っ最中の時です。

 

日本はイギリスとの同盟関係を理由に連合国として戦争に協力しますが、第一次世界大戦の主な舞台はヨーロッパなので日本はあまり関係ありません。

 

日本が連合国としてやった主な仕事は当時ドイツの領土となっていた山東省と南洋諸島という島々を占領することでした。

 

日本は見事に占領することに成功しますが、ここで日本はヨーロッパ諸国がアジアに目を向ける暇が無いことをチャンスと見て日本は中国にドイツを追っ払ったお礼の要求をしました。

 

これが二十一カ条の要求になります。

 

二十一カ条の要求の内容

 

 

二十一カ条の要求は5個の主な要求と後の16個の細かい要求に分かれていました。

 

今回は5個の主な要求の説明をします。

 

①日本のドイツ権益を継承を認める要求

これはドイツが持っていた中国の権益をそのまま日本に渡すというものです。

 

日本はドイツから山東省を奪い取ることに成功しました。しかし日本は三国干渉という苦い思い出を経験しているので中国に権益を認めさせることは重要な課題だったのです。

 

この要求を認めてくれれば例え諸外国から三国干渉のように「この土地は元々中国の物だから中国に返しなさい!」と言われても「いやいや、ちゃんと中国からOKを貰ったから文句を言われる筋合いはありません」といえることができます。

 

しかし、中国側からみたら本当は中国の土地なのに返されないんですから非常に不平等ですよね。

 

②関東州と南満州鉄道の借りる権利を99年延長&南満洲・東部内蒙古の開放

これは日本が日露戦争で獲得した大連を中心とする関東州の借りる権利を99年延長すること、そして中国北東部の地域の経済活動を自由にみとめることです。

 

※関東州:この関東は山海関という万里の長城の一部の東側にあるのが由来。決して関東地方のことではないから注意しよう!

 

日本は中国の権益を独占したい思惑があったため、この要求を入れました。

 

ちなみにこの要求によって関東州を借りる権利は1923年までだったのが、これによって2002年までに変更されました。

 

中国にとったらたまったものではないですよね。

 

③漢冶萍公司の日支合弁に関する要求

これは漢冶萍公司(かんやひょうこんす)という当時中国で最大の製鉄会社の経営を中国と日本が共同で行うことを認めるものでした。

 

この製鉄会社から取れる鉄鉱石は、八幡製鉄所の製鉄の原料として使われます。

 

資源があまり取れない日本にとってみたら資源を得ることができるチャンスですが、中国は権利を独占できなくなってしまいますのでこれも不平等です。

 

④中国沿岸の港湾や島々の他国への不割譲に関する要求

これは中国の港や中国が支配している島々を他の国に譲らないというものでした。

 

一見まともな要求にみえます。

 

しかし、この要求によって中国はヨーロッパ諸国に譲ることができなくなり、日本が中国の利益を独り占めできるようになります。

 

⑤中国全般にわたる希望要求

これは中国における警察・兵器製造・鉄道の権利を日本に譲るというものでした。

 

誰がどう見ても中国を操り人形にしたいのが丸わかりです。

 

もし、日本の警察官がいきなりアメリカ人になったら困惑しますよね。日本はそのように中国の警察官の大半を日本人にすることを要求しました。

 

以上のように日本は中国に対して無茶苦茶な要求をしてきました。

 

第5項問題

特に第5項は当時アメリカがメインとしてやってきた政策『門戸開放』の原則に違反しており、アメリカをはじめヨーロッパ諸国から大バッシングを受けました。

 

もちろん日本でも当時重鎮として知られていた元老山県有朋や、後に『平民宰相』として知られる原敬などがこの項目に批判。

 

これをを受けて日本はこの項目を削除した上で中国に提出しました。

 

中国政府の反応

(中華民国の国旗)

 

 

中国は普通なら受け入れるはずがないこの要求を受け入れました。

 

なぜかというと当時中国は日本の要求を跳ねのける力がなかったからです。

 

この当時の中国は辛亥革命が起きたばっかりで国内情勢はかなりガタガタでした。

 

 

さらに、当時の中国は軍備が遅れており、日本とまともに戦える状態ではありません。

 

そして、ヨーロッパ諸国は当時第一次世界大戦の真っ最中だったので中国に構っている余裕もありません。

 

このような状態では中国も受け入れるしか選択肢はありませんでした。

 

こうして中国は第5項を除く全部の要求をなくなく受け入れたのです。

 

中国国民の反応

もちろんこんな日本が中国を操り人形にしようとしている要求なんて国民は受け入れるはずがありません。

 

案の定各地で反日デモが起こります。

 

今でも5月7日と9日は中国の「国恥記念日」なるぐらい、この要求を政府が受け入れたことは中国国民にとって屈辱的なものだったのです。

 

ヨーロッパ諸国の反応

日本の要求はとんでもなく無茶苦茶な内容でした。

 

しかし、同じくヨーロッパ諸国も中国に酷いことをしていたのでヨーロッパ諸国にとっても日本だけを責めるわけにはいきません。

 

また、日本は第一次世界大戦に参戦してドイツを追っ払った見返りの意味もあって基本的には容認することにしました。

 

パリ講和会議での二十一カ条要求

(パリ講和会議の戦勝国首脳 出典:Wikipedia

 

 

1919年の第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議では、二十一カ条の要求は重要課題として交渉されました。

 

中国は二十一カ条要求の撤回をもとめていましたが、イギリスやフランスが日本との関係を優先してこれを無視します。

 

結局二十一カ条要求のほとんどが認められ、中国は泣き寝入りすることになりました。

 

二十一か条の要求のその後

この要求の後、中国国民たちは「このままじゃ中国が日本に乗っ取られてしまう!」ということを意識し始め、後に列強国に対して要求の撤回を求め始めます。

 

その行動が認められたのか、日本はワシントン会議で列強国から「山東省を中国に返しなさい」と言われ、日本も国際協調の精神にのっとって第1項の主な内容であった山東省を中国に返還しました。

 

 

結局、日本が第二次世界大戦の敗戦まで認められていた権利は21個あった中の半分ぐらいになっていました。

 

 

まとめ

 日本は第一次世界大戦でヨーロッパがアジアに目を向けていないことを利用して中国に二十一カ条の要求を出した。

 その要求の内容は到底受け入れられる内容ではなかった。

 中国は泣く泣く要求を認めたが、国民は納得せず各地で反日デモが起きた。

 要求は最初は21個あったが、終戦まで認められていた権利は半分だけだった。




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