第一次世界大戦後、国際関係はまとまりを失っていました。
そんな中、当時のアメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱によりワシントン会議が開かれました。
そしてこのワシントン会議の中で締結されたのが四カ国条約です。
今回はこの『四カ国条約(しかこくじょうやく)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
四カ国条約とは?
(1921年 ワシントン会議の様子 出典:Wikipedia)
1921年(大正10年)11月から1922年(大正11年)2月にワシントン会議が開かれました。
会議では、欧米や日本の海軍軍備の制限や、太平洋地域の諸問題が協議されて7つの条約、2つの協定を締結しました。
その条約の内のひとつが四カ国条約です。
四カ国条約は日本・アメリカ・イギリス・フランスの間で締結された条約で、この条約により太平洋諸島の領土や権益の尊重、問題の解決が目指されました。
四カ国条約が結ばれた背景
①第一次世界大戦と日本
四カ国条約締結に至るおおもとは第一次世界大戦です。
まずは第一次世界大戦と日本の関わりについて説明します。
20世紀初頭のヨーロッパでは、軍備拡張が行われており諸国が同盟・協商を組んで対立していました。そして、1914年に第一次世界大戦が勃発したのです。
日本は、イギリスがドイツに宣戦布告すると、日英同盟を理由に参戦。そこで中国における青島と山東省の権益を、さらには赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しました。
そして第二次大隈重信内閣の外相加藤高明は、1915年に中国の袁世凱政権に二十一カ条の要求を突き付けました。
これは山東省のドイツ権益の継承、南満州と東部内蒙古の権益を強化、日中合弁事業の承認などを要求する内容でした。
この要求は非難を受けたため、後に寺内正毅内閣では袁世凱の地位を継いだ段祺瑞政権に西原借款と呼ばれた巨額の経済借款を与えて、日本の権益の維持を図りました。
さらに、日本はロシアと4次にわたる協約を結び、国際的に権益を認めさせようとしました。
その一方、日本の中国進出に対して警戒していたアメリカは、太平洋地域の安全を確保しなければ大戦に参戦できないため、日本からは大使の石井菊次郎を、アメリカからは国務長官のランシングをだして、
日本は「アメリカに中国の門戸開放・領土保全」、アメリカは「日本に中国における特殊権益」を、相互に認め合った石井・ランシング協定が締結されました。
②ヴェルサイユ条約の締結
1918年11月、4年にわたる第一次世界大戦が休戦。翌年の1919年にはパリで講和会議が開かれ、日本も参加しました。
そして同年6月にヴェルサイユ条約が締結されました。
この条約は敗戦国であるドイツにとって厳しい条約となりました。
また、国際紛争の解決や国際協力のための機関として国際連盟が設立されることとなりました。
(※この時期の新たな国際秩序をヴェルサイユ体制と呼びます)
日本は、ヴェルサイユ条約において山東省の旧ドイツ権益の継承と旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を獲得しました。
しかし、アメリカはこれに反対し、さらには中国で五・四運動が起こったことから日本はヴェルサイユ条約に調印しませんでした。
③ワシントン会議の開催
ドイツの賠償金は莫大でしたが、ほかのイギリスなどの敗戦国も戦債の支払いは重荷でした。
そこでアメリカがドイツに援助をして賠償金を周辺国に払い、イギリスなどがアメリカへ戦債を払う仕組みが検討されていました。
さらに、日本の顕著な中国への進出やロシア革命後のソヴィエトの情勢、中国での民族自決の高まりなどから、ヨーロッパ地域にとどまらずアジアや極東にも対策を講じる必要が出てきました。
これらの状況から1921年、アメリカは海軍軍備制限や太平洋および極東問題を解決するために国際会議であるワシントン会議を開催。
これにより、アジア・太平洋地域の新しい国際秩序であるワシントン体制が確立されました。
ワシントン会議では重要な条約が二つ締結されました。【四カ国条約】と【九カ国条約】です。
九カ国条約は、日・米・英・仏・伊の5カ国にベルギー・オランダ・ポルトガル・中国の4カ国を合わせた9カ国で中国の領土と主権の尊重、門戸開放と機会均等について約束し、締結されました。
日本はこれにより日米間の石井・ランシング協定を破棄して、日中間交渉を行い、山東省の旧ドイツ権益を中国に返還しました。
さらに、ワシントン会議ではワシントン海軍軍縮条約も締結され、これによって日本は戦艦の保有を制限され、以降10年は戦艦の建造をしないことになりました。
四カ国条約の内容
四カ国条約には・・・
✔ 日・米・英・仏の間で太平洋での各々の国が保有する島々の維持
✔ 太平洋問題での利害が対立して紛争などの行為によって協調した関係が侵されるようになった場合は調印国間で慎重に交渉、審議する
✔ この条約は10年が有効期限とする
ことが記されていました。
四カ国条約の結果・影響
①日英同盟の解消
四カ国条約が有効となった時点で、日英同盟は破棄されることになりました。
日英同盟は、1902年に結ばれてから内容は何度も更新されて1911年には第三次日英同盟を締結していましたが、同盟関係はわずか20年で終わりを迎えました。
このことは条約の第4条の中に記されていて、破棄された当時は発展的な解消であったなどと国内には前向きなことであると発表されたようです。
実は、イギリスは日本が中国に対して二十一カ条の要求を突き付けた1915年の時点で、日本が中国に進出して保護国とするつもりがあるのではないかと警戒していたという見解もあります。
さらに、日本は1907年からアメリカに対抗して日露協商を結んで国際的に権益の主張をしていましたが、この時からイギリスは日米関係の悪化を警戒していたかもしれないのです。
イギリスは、第三次日英同盟の改定時に日米戦が発生した場合は援助義務を負わないことを記していました。
これらのことから、早くからイギリスは日米関係が悪化して日米戦が行われることを予測していたといえますし、それを見越して四カ国条約において日英同盟を破棄したともいえます。
②ワシントン体制下の日本
高橋是清内閣が組閣すると、ワシントン体制を積極的に受け入れる姿勢をとりました。
さらに続く加藤友三郎内閣、第二次山本権兵衛内閣も引き継ぎ、協調外交を行いました。
その後、外相幣原喜重郎によりさらに協調外交が推進されたため、幣原外交とも呼ばれます。
幣原外交はアメリカ・イギリスとの武力対立を避けて、さらに中国に対しては内政不干渉の形をとりました。
その間、日中関係の安定化に成功はせず、変わらず反日運動も起こったことから批判も受けました。
さらに、田中義一内閣が積極外交を展開するようになるとますます軟弱外交として批判されてしまいました。
しかし、この協調外交下での海軍軍縮の影響はとても大きく、1921年に国家の歳出の5割に近かった軍事費は1926年には3割を切るまでになったのです。
まとめ
✔ 四カ国条約はワシントン会議のなかで締結された条約のひとつ。
✔ 四カ国条約は太平洋諸国に関する問題の平和的解決について四カ国で締結した条約。
✔ 中国に関する九カ国条約も四カ国条約とセットで覚えると良い。
✔ 四カ国条約により日英同盟が破棄され、同盟の破棄はのちの協調外交にも繋がる。