【日露協約とは】わかりやすく解説!!なぜ結ばれた?内容や背景・その後など

 

日本とロシアは日露戦争が終わって少し気まずい雰囲気がありました。

 

経済的にも精神的にもお互いに大変な思いしか残さなかったからです。

 

普通は戦争をしてすぐには、なかなか協約を結ぼうなんて思いません。しかし、日露間では戦争後に協約を結ぶことになりました。

 

どうして数年前まで戦争していたこの2か国が講和条約以外に4度も協約を結ぶに至ったのでしょうか?

 

今回は、そんな日露戦争後に結ばれ『日露協約』について、わかりやすく解説ていきます。

 

日露協約とは

 

 

日露協約は日露戦争後、日本とロシアがお互いに権利や利益を認め合うために結ばれた4度に渡る協約のことです。

 

日露協商とも言われています。

 

1907年(明治40年)に1次条約調印に始まり、1916年(大正5年)に4次条約調印まで17年にわたり結ばれました。

 

なぜ日露協約は結ばれたのか?目的と背景

日露協約を結ぶずっと以前に「日露協商」を結ぶべきだと伊藤博文らは主張、働きかけをしました。

 

しかし、1902年仮の敵をロシアと想定したイギリスとの「日英同盟」が結ばれることで立ち消えました。

 

 

それでは、なぜ日露協約を結ぶことになったのでしょうか?

 

①他国への勢力拡大のため

日露戦争はポーツマス条約をもって講和となりました。

 

ロシアはバルカン方面に進出するために中国を維持したい。日本もまた、アジア方面の権利と利益の維持がしたかったのです。

 

戦争後ということもあって、お互いがお互いの国のために仲良くしておく方が良いと考えたのです。

 

②アメリカとの関係悪化

日本の動きに対して何かと干渉、批判してくるアメリカ合衆国。

 

これを見たイギリスは、日本と友好条約を結ぶことは良くないと判断したのです。

 

日本がイギリスと条約を結んだ理由はロシアが日本の支配下においていた中国や朝鮮の支配を拡大してきたからです。

 

イギリスと仲良くしていることでロシアに圧力をかけている意味がありました。

 

ところが、アメリカと仲良くする方が良いとばかりに条約を破棄したイギリスに頼れないとなれば、伊藤博文時代からの考えである「ロシアと協定を結び中国などアジア圏の権利と利益をお互い確認しあいましょう」という流れが日本の政権に広がったのです。

 

③フランスの後押し

日本とロシアが仲良くすることに対しては否定的、消極的だった人も少なくありませんでした。

 

友好条約を結ぶことに積極的に動いた国がフランスです。

 

フランスはドイツとの対立がとても深刻になっていました。

 

どうしても日露協約を結んでほしいフランスは、日露戦争でどん底に落ちた日本の国の借金をイギリスと共に引き受ける代わりに日露協約を結ぶことを迫ったのです。

 

アジア圏支配のこともあり、日本にとっても悪い話ではありませんでした。

 

そのため、日露協約と同時に英露協約も結ばれました。

 

この時代、日本外交には世界が結びついていたのです。

 

日露協約の内容

①第1次日露協約

1907年、日本ロシアが清国(中国)から得た権利と利益をお互い尊重することを定めた協約です。

 

秘密事項にハルビン・長春を中間地点にし、北満州はロシア、南満州を日本の勢力範囲としました。

 

また、モンゴルのロシアの特別な権益と利益を日本が認め、日本と韓国との相互利益と損害の関係をロシアが認めました。

 

これにより日本は日韓併合に踏み切ったのです。

 

 

②第2次日露協約

1910年に更新されました。

 

日露の勢力範囲での権利と利益の保持のため両国が協調することを定めました。これは秘密協定でした。

 

この協約の背景には、1909年アメリカによる満州鉄道中立化計画(日・露・仏・英・米・独の7か国で満州鉄道経営をしよう)の提案があったからです。

 

この計画を日本とロシアは自国の利益が脅かされると反発したのです。

 

③第3次日露協約

1912年に更新されました。

 

中国(当時の清朝政府)は、財政難であったため鉄道を国有化し、それを不利益に対する保証にして外国から借り入れ金を得ようと考えました。

 

1910年アメリカ・フランス・イギリス・ドイツ4か国の銀行により「四国借款団」が結成。そして、1911年に幣制改革・産業開発のため中国に長期的に国際的なお金を貸す提案をしました。

 

アメリカは満州での権利と利益を自国にも!と考えていたので、日本とロシアは互いに助け合いをしようと考えます。

 

第3次日露協約では、満州からモンゴル・中国西部へ勢力を拡大し、内モンゴルの西部はロシア、東部は日本に利益を分割することを協約しました。

 

④第4次日露協約

1916年に更新しました。

 

第4次協約では、日本とロシア以外の国の中国の支配阻止・中国での権益を守るために、両国相互に軍事援助を行うという秘密相互条約を結びます。

 

軍事同盟に発展したため、第4次日露協約は日露同盟とも言われています。

 

日露協約のその後

①ロシア革命と日露協約

1917年、ロシア革命が起こりました。

 

十月革命とも言われ、世界で初めて貧富の差や身分の差をなくした国家を成立させたことから、20世紀でも重要な変革とされています。

 

十月革命で権力を持ったレーニンが全ロシア=ソビエト会議で「平和についての布告」で日本との秘密協約を破棄しました。

 

レーニンは「無賠償・無併合・民族自決」を原則とした停戦を提案。ここで、4度にわたった日露協約は消滅しました。

 

②各国のシベリア出兵の目的

日本は帝国ロシアが革命により崩壊し、協約が消滅したことから満州の権利と利益を独占しようと考えました。

 

ロシアの混乱の間に、シベリアも日本の支配下にしようと考えたのです。

 

同じようにロシアの混乱の最中「チェコスロバキア兵の救出」という理由から、日本・アメリカ・イギリス・フランスがシベリアに兵士を送り込みました。これが「シベリア出兵」です

 

ロシアは「シベリア戦争」「シベリア干渉戦争」と呼んでいます。

 

③単独出兵か共同出兵か

資本主義国はソビエトの社会主義国家を認めませんでした。

 

レーニンが提唱した「平和への布告」も無視。資本主義列強はこの考えがあるため「共同歩調」していきました。

 

唯一同情的だったと言われているのが当時アメリカ大統領だったウィルソン。共同出兵にも消極的だったのです。

 

日本はこれを好機として、単独出兵を主張する田中義一・山形有朋らと、アメリカとの共同出兵を主張する原敬・牧野伸顕らの意見が対立。

 

結局は話はまとまりませんでした。

 

まとめ

日露協約は、アジア方面の権利と利益をアメリカ・イギリスから守るための勢力範囲を分割した協定のこと。

・日露協約が結ばれた理由は、①アメリカとの関係悪化、②アジア圏の権利と利益の分割。

・第1次日露協約は日本ロシアが清国(中国)から得た権利と利益をお互い尊重することを定めた協約。

・第2次日露協約は日本とロシアの勢力範囲での権利と利益の保持のため両国が協調することを定めた協約。

・第3次日露協約は満州からモンゴル・中国西部へ勢力を拡大、内モンゴル西部はロシア、東部は日本に利益を分割することを定めた協約。

・第4次日露協約は日本とロシア以外の国の中国の支配阻止・中国での権利と利益を守るために、両国相互に軍事援助を行うという秘密相互条約。

・ロシア革命が起こりレーニンが日露協約を破棄。

・シベリア出兵でアジア圏の権利と利益を独占したかったが話はまとまらなかった。