時は1556年、織田信長とかねてより不仲であった弟・織田信行は、とうとう戦にて戦う事となりました。

 

戦国の世では親兄弟身内と言えど、敵となるような時代です。

 

現在でも良く相続の際に争族になることは珍しくありません。

 

今の世ですらそうなのですから、いつの時代でも有りうる事と言えますが、織田信長もそうでした。

 

今回は、織田信長の兄弟喧嘩である「稲生(いのう)の戦い」について分かりやすく解説します。

 

稲生の戦いとは

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(愛知県名古屋市にある稲生原古戦場跡 出典:Wikipedia

 

稲生の戦いとは、1556年尾張で発生した織田信長とその弟織田信行による家督争いに付随した戦です。

 

父・織田信秀の代から仕える旧臣は、ことごとく信行派に就くなど、一応は家督を継いだ信長でしたが、それだけ反対派も多かったと言うことでしょう。

 

そもそも信長は、他国にも大うつけと知られるくらいですから、誰もが跡取りには優等生である信行を推していたのです。

 

そんな家臣たちに推されて自身が家督相続を夢見る信行は、兄信長に反抗して遂に戦へと持ち込み、家督の座を奪い取ろうと奮闘します。

 

当初は、有利に戦うもあえなく敗戦し、信長に謝罪する羽目となるのでした。

 

稲生の戦いが起こった背景

①偉大な父「織田信秀」

尾張の虎とおそれられた織田信秀は、織田弾正家の生まれですが、元々この家系は織田家内でも庶流の出であり、言わば分家で本家に仕える家臣筋の家でした。

 

 

しかし、時は戦国の世、徐々に主家を上回る勢力をつけ始めた信秀は勢力拡大に務め、主家との主従関係を一応持続させながらも尾張内で相当の勢力を確保し、事実上戦国大名として独立していると言っても良い状態でした。

 

後に主家を滅ぼす事となったのは息子の織田信長ですが、その礎とも言うべき基礎を作りあげたのは、信秀その人です。

 

そんな信秀の息子として誕生したのが、信長・信行兄弟です。

 

②二人の息子

信秀には、すでに側室との間に庶子である長男・織田信広が誕生していましたが、次男として誕生したのが嫡男・織田信長です。

 

(織田信長 図像 出典:Wikipedia)

 

次男とは言え、正室土田御前所生の男子信長は生まれながらの嫡男でした。

 

信広は長男とは言え、側室の子で正室の子として初の男子である信長は、生まれたその時から多くの期待をかけられていたのです。

 

事実、嫡男として特別な帝王学を学びながら養育されます。

 

信長誕生の二年後三男信行が生まれます。

 

当時の習わしとして嫡男である信長は親元を離れ、別の城で家臣達によって養育されたのに対し、正室・土田御前の子の信行は両親の元に置かれ、特に実母・土田御前は大変溺愛していたと言います。

 

 

同じ我が子とは言え、人伝に近況を聞くだけの息子より手元で手塩を掛けて養育する息子の方が可愛いのは、もはや致し方ないでしょう。

 

稲生の戦いのはじまりと経過

①不良信長VS優等生信行

若い頃の信長は、尾張の大うつけと称されており、今で言う不良のリーダーでした。

 

信長は、髷を結わずに派手な紐で結んだり、帯を巻かずに縄を巻く代わりに幾つもの瓢箪をぶら下げ、寺小屋での授業態度は最悪。

 

上街角では柿をかじりながら歩行して、周りに同じような格好をした子分達を従えていたと言うのです。

 

その上、ちまたでは、その辺の若者と平然と会話をする訳です。

 

恐れ多くも信長は、当時一国を納める大名の跡取り息子ですから、本来高度な教育+マナーを身に付けると共に、当時は身分社会ですから誰でもその辺の若者と気軽に仲良くするのは、無作法とも言うべきでした。

 

それに対し、信行は両親の元で大切に養育されたためか、はたまた信長を反面教師にしたのか、非常に品行方正な本来、嫡男にあるべき優秀な青年へと成長しました。

 

周りが不良の信長と比べていますから、余計そう感じるでしょう。

 

実は、二人とも嫡男?

特に、悪評しかない信長でしたが、それでも父・信秀の存命中、廃嫡になる事はありませんでした。

 

それでも信行を嫡男にと言う世論は、相当大きかったのです。

 

しかし、じつは信長は事実上、廃嫡で信行が嫡男として扱われていたのではないかと言う考えがあります。

 

信長は、美濃の蝮・斎藤道三の娘濃姫と結婚しますが、この道三は信秀にとって最大の敵とも言える存在でした。

 

 

その信秀が道三と同盟を結ぶと言うことは、そう容易ではありません。

 

同盟を結ぶため、嫡男である信長を濃姫の婿と言う形で結婚させる事で同盟にこぎ着けたと言うのです。

 

道三からすれば大事な嫡男を婿に貰えるならば、気は悪くないでしょう。

 

つまり信長は、斎藤家の婿で事実上の廃嫡、弟信行が嫡男に成り代わったと言う事です。

 

しかしながら、結婚後も尾張で暮らしていますし、正式に廃嫡かと言われれば難しいのです。

 

とうとう戦いへ

そして父信秀が死去すると一応家督を継いだのは、信長でした。

 

ですが、不良信長に一国の主が務まる訳がないと言う旧臣達は信行を擁立します。

 

そして信行自身も自分が当主に相応しいと本性を表すと、あいまみれる事となったのです。

 

信行は、特に実母から溺愛されていたため、さぞ土田御前から信長なの悪口を聞かされていた事でしょう。

 

兄と言えど、尊敬の念を持つ事はなかったのかもしれません。

 

これは、徳川幕府三代将軍徳川家光と徳川忠長にも通じますね。

 

戦では信長700に対し、信行は1700で当主でありながら、信長の方が少ないという無様な形での開戦となります。

 

それだけ皆、信行に期待していた訳ですね。当初は人数差もあり、優勢に動く信行でしたが、本陣に迫って来た信行の配下達を信長が大声で怒鳴りビビって皆敗走したと言います。

 

そもそも敗走した者達も大きく言えば信長の家臣ですからね。

 

信長に恐れをなして敗走が始まると信長が快進撃し信行は、あえなく敗戦します。

 

負けた信行

結局敗戦した信行は、実母・土田御前に付き添われ土田御前の取り成しにより信長の居城清洲城で対面を果たします。

 

本来信長に歯向かった本人なのですが、この時は母・土田御前の願いもあり許されるのでした。

 

信長も母の願いには、弱かったと言うことですね。

 

そして、信行を担ぎ出した家臣柴田勝家、林秀貞はも許され勝家は、終生信長の家臣として活躍します。

 

しかし、秀貞は20年以上経ってから追放されるのでした。

 

稲生の戦い後の信行

 

いったんは、信長に頭を下げた信行でしたが、本音では長らく品行方正に過ごし母に愛されている自負のある自分の方が当主に相応しいと考えていたのでしょう。

 

そんな環境に幼少期からいた信行にとって、自身が家督を継いで当たり前と思っていますから、信長に従うなどプライドが許さなかったのかもしれません。

 

もしここでおごり高ぶらず信長に従えば、一門の筆頭として一門をまとめる要職に就けたことでしょう。

 

結局再び不穏な動きを見せた信行は、最後信長によって暗殺されるのでした。

 

まとめ

まとめ

 

✔ 稲生の戦いとは、1556年に織田信長とその弟織田信行による戦いである。

 

✔ 信長は、若い時は、大うつけと称され不良のリーダーであったが、信行は、優等生で周りからも期待されていた。

 

✔ 父織田信秀が死去して信長が家督を継ぐも信長が相応しくないと言う家臣と共に信長に対し反抗して戦となる。

 

✔ 結局敗戦した信行は、信長に謝罪するも最後迄不穏な動きを見せ最後は、信長に暗殺される。

 

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