【近江屋事件とは】わかりやすく解説!!事件が起きる前や経過・影響・犯人など

 

国を変えた功労者には必ずそれを妬んで殺そうとしたり、さらには暗殺されたりすることはしばしばあります。

 

今回紹介する坂本龍馬もこの近江屋事件によって暗殺されてしまいました。

 

今回はそんな『近江屋事件(おうみやじけん)』についてわかりやすく解説していきます。

 

近江屋事件とは?

(坂本竜馬 出典:Wikipedia

 

 

近江屋事件とは1867年に京都の醤油屋の近江屋で起きた坂本龍馬が暗殺された事件のことです。

 

この事件は大政奉還が行われた直後に起きたこともあって土佐藩士などの尊王攘夷派の志士達に大きな影響を与えました。

 

近江屋事件の勃発

(現在の近江屋跡地 出典:Wikipedia

①近江屋事件が起きる前まで

薩長同盟を成し遂げさらには大政奉還が行われて幕府が消滅し、新しい時代へと走り出した1867年。

 

 

坂本龍馬は襲撃された寺田屋から土佐藩御用達の醤油屋である近江屋に身を寄せるようになります。

 

しかし、坂本龍馬は薩長同盟を成し遂げた上に倒幕運動を行なっていたこともあって龍馬を恨んでいる人は沢山います。

 

 

また、龍馬は土佐藩を脱藩していた過去があるため土佐藩邸に逃げたり、盟友でもある薩摩藩邸にも逃げることができません。

 

こうした理由で龍馬は近江屋に泊まることになったのでした。

 

②坂本龍馬の暗殺

1867年12月10日、この日龍馬は風邪をひいていたこともあって本来なら一階にある土倉に潜んでいたところを二階に移動していました。

 

(※普段土倉に潜んでいたのは、もし襲撃されても簡単に逃げることができるため)

 

ちなみに、この時龍馬の盟友中岡慎太郎と岡本健三郎が一緒に泊まっており、龍馬の大好物でもあった軍鶏を岡本に買いに行かせた後、龍馬と中岡慎太郎はその後の日本のビジョンなどさまざまな国の政治の話に花を咲かせます。

 

 

(中岡慎太郎 出典:Wikipedia)

 

 

そんな中、十津川郷士と名乗る武士が近江屋に突入。龍馬に武士が突撃したことを伝えようとする人とその郷士は斬りつけ、さらに龍馬の命を狙う刺客が二階に突入し、龍馬と中岡慎太郎を襲います。

 

龍馬と中岡慎太郎はその刺客に応戦しようとしますが、元々座っていたことや刺客の斬りつけるスピードがあまりにも早かったこともあり、龍馬は額を切られ、慎太郎は両手両足を斬られてしまう重傷を負ってしまいます。

 

龍馬は「慎太郎、僕は脳がやられたからもうだめだ」という言葉を残し死去。さらに慎太郎は一時期容体が回復したものの、その2日後に亡くなりました。

 

近江屋事件の影響

 

 

『近江屋事件で坂本龍馬を失った』この出来事は多くの尊王攘夷派の人たちに衝撃を与えます。

 

 

倒幕派の公家である岩倉具視は「誰がやったんだ!これは私の両手両足が無くなるほどの痛手なんだぞ!」と悲しみ、さらにもう一人の倒幕派の公家であった三条実美は坂本龍馬の暗殺にショックを受け、食事も取れないほど落ち込んだそうです。

 

龍馬はそれほど倒幕派の重要人物として認識されていたのです。

 

土佐藩士の復讐

坂本龍馬が暗殺されたことに特にダメージが大きかったのが坂本龍馬の出身地でもある土佐藩士でした。

 

特に谷干城や板垣退助などは龍馬を心酔していたこともあって相当なショックを受けたことでしょう。

 

しかし、このショックがとんでもないことに繋がっていくのです。

 

近江屋事件が起こってから少し後、新撰組の組長である近藤勇が今の千葉県流山あたりで捕縛。新政府軍に身柄を拘束されます。

 

 

(近藤勇 出典:Wikipedia)

 

 

そして近藤勇の処罰を決めることになるのですが、ぶっちゃけ最初の方は「まぁまぁ、こちら側に身柄を拘束すればいいんじゃね?」という形で済まされるはずでした。

 

しかし、これに新政府軍の要人谷干城が猛烈に反対。そりゃそうです・・・谷干城は新撰組によって坂本龍馬が暗殺されたと思っていましたから。

 

この反対意見を新政府が受け入れ近藤勇は助かる寸前から一転、武士としたらありえない斬首刑を言い渡され、さらに三条河原で晒し首にされてしまいます。

 

もし、近江屋事件自体起こっていなかったら、谷干城が近江屋事件の犯人を新撰組と決めつけなければ近藤勇が処刑されることはなかったのかもしれません。

 

近江屋事件の犯人は結局誰なのか

 

 

近江屋事件の最大の謎。それは誰が龍馬と慎太郎を殺したのかということです。

 

次は近江屋事件の犯人の候補をその根拠と交えて紹介していきたいと思います。

 

①京都見廻組説

今の時点で一番有力説と言われているのが京都見廻組説です。

 

京都見廻組ってあまり聞いたことがないと思いますが、この組織はいわゆる京都の治安を守る役目を果たしている今で言うところの警察みたいな役割をしていました。

 

そのため幕府を潰そうとしている尊王攘夷派の代表格である坂本龍馬は一番の敵。暗殺する動機は申し分ありません。

 

また、箱館戦争(戊辰戦争の局面のひとつ後に元京都見廻組の人が坂本龍馬暗殺に関わったことを自供して禁固刑となったこともありました。

 

 

以上の理由の他にさまざまな証拠も残っており、京都見廻組が今のところでは一番怪しいと思われています。

 

②新撰組説

京都見廻組の次に怪しまれていたのが当時京都の治安維持を監視しており、尊王攘夷派の志士多数逮捕したり襲撃していた新撰組でした。

 

まぁ、この組織も京都見廻組の時の同じく龍馬を襲撃してもおかしくありませんし、また襲撃された後慎太郎自身が襲ったのは新撰組しか考えられないと発言したこともあり、土佐藩士達はこの説を一番信じていました。

 

そのため、谷干城が近藤勇を処刑を断固として支持したりしたのですが、証拠が今のところ少なかったり、その証言が結構あやふやだったりするなどこの説が必ずしも確定とは言えません。

 

③紀州藩襲撃説

京都見廻組や新撰組が犯人と言われている中、紀州藩が襲撃した説もあります。なんで紀州藩の人が龍馬を襲撃したのか?

 

その謎を解くには坂本龍馬が海援隊のリーダーだった時に起きたいろは丸事件を見る必要があります。

 

このいろは丸事件は紀州藩と海援隊の間で起こったトラブルが原因で訴訟に発展事件なんですが、この時海援隊が勝訴しています。

 

これを受けて紀州藩の藩士が龍馬を恨んで襲ったとされています。

 

なかなかこじつけな部分もありますが、現場に残っていた刀の鞘の中に紀州藩のものが混ざっていたりとしていたため、近江屋事件が起こった後天満屋事件という紀州藩士が海援隊の人達に襲われる事件も起きてしまいました。

 

④薩摩藩陰謀説

最後に紹介するのは薩摩藩が龍馬の暗殺を仕掛けたとする説です。

 

なんで薩摩藩が土佐藩士である龍馬を暗殺させたと言われているのかというと薩摩藩が考えていた倒幕と龍馬が考えていた倒幕の方向性が全く違っており、薩摩藩が龍馬のことを邪魔と思って暗殺に関与したというのです。

 

しかし、それを示す証拠はなく、この説の信ぴょう性は結構低いです。

 

このほかにもイギリス人がやっただとか、長州藩の人がやったとか色々な説があるのですが、未だに謎な部分も多く、まだまだ真相解明のために研究が進められています。

 

まとめ

 近江屋事件は1867年に近江屋で起こった坂本龍馬の暗殺事件のこと。

 この事件によって坂本龍馬と中村慎太郎が死去し、倒幕派の要人もこの事件に衝撃を受けた。

 この事件に土佐藩士は大激怒。犯人の説があった新撰組の隊長である近藤勇が処刑されるなどの影響があった。

 この事件の犯人は京都見廻組説や新撰組説や薩摩藩士説などいろいろな憶測がありますが、今でも犯人の特定には至っていない。