お金を貸すときは、よく相手を見て貸しましょう。

 

二つの勢力が争っているときは、勝ちそうな方に資金援助しないと本当に踏み倒されてしまいます。

 

日本の近現代史で有名な踏み倒され事件は西原借款です。

 

1917年~18年(大正6~7年)にわたって中国の段祺瑞政権に資金を提供した西原借款は、そのほとんどが回収不能になりました。

 

段祺瑞が失脚し、返してくれなかったからです。

 

当時のお金で1億円を超えるこの巨額の借款はのちに国民の税金で穴埋めされました。

 

お金はどこから出てきたのか、なぜ段祺瑞(袁世凱の後継者)に貸したのか、いろいろ興味がわいてきますね。

 

今回は、そんな『西原借款』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

そもそも「借款(しゃっかん)」ってなに?

 

 

借款とは国と国との間で行われるお金の貸し借りのことです。

 

いまでいうとODA(政府開発援助)のことでしょうか。

 

他の国にお金を貸し与えてインフラを整備させれば、自分の国の製品が売りやすくなります。

 

また、相手国が安定することで難民の流入を防いだり戦乱の回避がねらえます。

 

第一次世界大戦前後の中国大陸では多くの借款鉄道が作られました。

 

鉄道を整備することで、物流を劇的に改善し、かつ沿線の鉱山や工業地帯を支配下に置くことができます。

 

鉄道以外にもいろいろな借款がありましたが、日・英・米・仏といった列強はお金を貸し付けることで中国への影響力を強めようとしていたのです。

 

西原借款とは

(段 祺瑞 出典:Wikipedia

 

 

西原借款とは、1917年~1918年の間に寺内正毅首相の私設秘書西原亀蔵が、中国の段祺瑞政権に与えた借款のことです。

 

なぜ、正規のルートではなく私設秘書が交渉にあたったのでしょうか。

 

じつは中国への借款は英仏露日の4か国でつくる四か国借款団の枠組みのなかで行われるはずでした。

 

しかし、中国への進出を急ぐ日本は欧米列強がヨーロッパで第一次世界大戦を戦っている間にこの話をまとめ、非正規ルートで巨額の資金を段に提供しました。

 

1915年の対華21か条要求に加えて中国に巨額の貸し付けを行ったことで、欧米列強は日本に対する警戒心を強めました。

 

 

西原借款の目的

 

 

日本は中国における利権の拡大をねらっていました。

 

1915年には中国全体を掌握していた袁世凱対華21か条の要求をおおむね認めさせ、利権を拡大します。

 

袁世凱がなくなった後、段祺瑞が袁の北京政府(北洋軍閥)を継ぎ孫文率いる革命軍と戦っていました。

 

孫文は日本に何度か亡命をしていて、明治維新にならって中国を改革しようとしていました。

 

北京政府のほうは軍隊が強く、軍事力で国内を掌握していたので、革命軍と北京政府どちらを支援するか日本は悩んでいました。

 

結局日本は北京政府の支援にかじを切り、段政権にお金を出して日本に都合のいいように動いてもらおうとしたのです。

 

北京政府とのパイプを太くし中国進出をはかる目的でしたが、肝心の北京政府が内輪もめで足の引っ張り合いをしており支援した段についても失脚して結局、目的は果たせませんでした。

 

借款はインフラ整備の名目で貸し出したものの、結局革命軍のとの戦いに使われてしまい、日本には何も残りませんでした。

 

(せめて鉄道などができていればそれをもらえたのに・・。)

 

西原借款にした理由

 

 

日本は中国への進出を狙っていましたが、それは欧米列強も同じでした。

 

中国を経済的に支配しようと、たくさんの国のたくさんのお金が中国大陸に流れ込もうとしますが、大国である中国全体にばらまけるほどのお金はだれも持っていないのです。

 

どこかの国に抜け駆けされるのも面白くありません。

 

そのため、列強は借款団とよばれる枠組みをつくりました。(みんなで一緒にお金をだそう、という話です)

 

つまり、国家予算から中国へお金を貸す場合はこの借款団を通さなければいけないのです。

 

しかし、第一次大戦でヨーロッパ諸国の目が中国から離れたすきをついて日本政府は動きます。

 

非正規ルートで中国に資金援助をしたのです。

 

借款団が見張っているため、国家予算はつけられません。資金は日本興業銀行、朝鮮銀行、台湾銀行が用意しました。

 

第一次大戦による大戦景気で日本国内は空前の好景気で、お金はたくさんあったのです。

 

しかし、貸したお金は返ってこなかったので、結局は国のお金でこれらの銀行に借金を返しました。

 

まさに骨折り損のくたびれ儲けで、のちに政府は批判にさらされます。

 

また、借款団を通さずにお金を渡したということで、列強から中国を侵略しようとしてるんじゃないかと疑惑の目を向けられます。

 

中国の状況

 

 

さて、資金を受け取ったほうの中国はどういう状況だったのでしょうか。

 

民衆の間では日本に対する反感が高まる一方、日本とつながって勢力を伸ばそうという動きもありました。

 

①対華21か条の要求

1915年、日本の大隈重信内閣は対華21か条の要求を北京政府に突きつけました。

 

袁政権は要求の厳しさ、非道さをアメリカや自国の民衆に訴えかけます。

 

プライドの高い中国国民は21か条の要求を出してきた日本に大いに反感を覚え、反日感情が高まりました。

 

袁政権は民衆をあおって反日感情を民衆の間に広めたのです。

 

②袁世凱

袁世凱は1915年に皇帝を名乗り帝位につきますが、時代遅れの帝政に民衆の反発はものすごく…あっという間に退位させられ、すぐに死んでしまいます。

 

袁があっというまに死んでしまったので後継者争いが起きて、内輪もめが頻発します。

 

もともと北京「政府」とはいっても、清国の軍隊の親分だった袁世凱とその子分たちの集まりで、内部にはいろいろな派閥や権力争いがありました。

 

③内戦へ

袁が1912年に政権を握ってたった3年で死んでしまったので、残された有力な部下や地方の親分たちは本格的に争いを始めます。

 

段祺瑞は日本からの西原借款を得て勢力を拡大しますが、政権内部での支持を広げられず、また親日的(日本からお金をもらってますからね!)とみられて民衆の支持も得られませんでした。

 

1919年からはじまった五・四運動による民衆の反日感情の高まりの中、段は1920年には失脚してしまいます。

 

その後も中国国内はゴタゴタし、日本が貸したお金などかえってきやしませんでした。

 

 

まとめ

・西原借款は1917~18年に段祺瑞政権に貸し出したお金のこと。

・寺内正毅首相の私設秘書西原亀蔵が交渉にあたったのでこの名前になった。

・列強は、巨額の資金援助をした日本に不信感を抱いた。

・借款は償還されなかった。




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