「正中の変・元弘の変」と聞いてハッとする人はかなりの歴史好きかと思います。

 

中学レベルでは教科書にも載らない事件ではありますが、実は一つの大きな時代を終焉へと進めるきっかけになった重要な事件といえるのです。

 

今回は、そんな『正中(しょうちゅう)の変・元弘(げんこう)の変』についてわかりやすく解説していきます。

 

正中の変・元弘の変とは?

(後醍醐天皇 出典:Wikipedia

 

 

鎌倉末期、後醍醐天皇とその腹心などが倒幕を計画し、それが発覚した結果、加担した者が処罰されることになった事件のことです。

 

この2つの事件【正中の変】【元弘の変】の間は7年開いていますが、ともに後醍醐天皇が中心となった事件であり、1回目の失敗から2回目の事件に繋がっていきますので、大体ひとまとまりの出来事として見ることが多いです。

 

正中の変の始まりから終わりまで

①時代背景

鎌倉幕府の支配体制を支えていた御家人たちですが、長年の分割相続の結果、生活は苦しくなっていました。

 

そのような中、13世紀後半に元寇が起こります。

 

命がけでさらに借金を重ねて戦いに赴いた御家人に対して、幕府は恩賞を十分に渡すことができませんでした。

 

元寇に辛勝したといっても、領土を得るなど出来なかったのでやむを得なかったのです。

 

またこの窮地を救おうと発布した「永仁の徳政令」もあまり効果はなく、さらに元寇以後のさらなるモンゴルからの襲来に備えるべく北条一族への権力集中を図った為、幕府への反感が強まっていくばかりでした。

 

 

重ねて、畿内を中心とした各地で悪党と呼ばれる荘園領主や幕府に従わず年貢を奪うような武士も現れ、民衆を困らせていました。これも幕府は抑えることができず、治安は悪化、幕府への信頼がどんどん失われていったのです。

 

②幕府政治の荒廃

そのような情勢の中にもかかわらず、鎌倉末期の14代執権北条高時は、政治を側近である長崎高資(ながさきたかすけ)にまかせ、自身は田楽などの道楽にふけっていました。

 

 

(北条高時 出典:Wikipedia)

 

 

長崎達が権力を行使して好き勝手に政治を行った為、政治は乱れ荒廃は深刻化していきます。

 

この長崎達の横暴ぶりは他の北条一族でも抑えることが出来なかったそうですが、今でいうと社長の秘書が権力を握り、おそらく社長一族が口出しできないといった感じでしょう。

 

③正中の変が起こった原因(きっかけ)

荒廃していく幕府政治に対し、1318年に即位した大覚寺統後醍醐天皇は政治に非常に意欲的な天皇だったようです。

 

かつて朝廷にあった「記録書」という役所を再興し、民衆の訴えに耳を傾け、飢饉の折には自らも倹約を実施、悪徳商人を取り締まったり、施しを行ったりしたそうです。

 

かつての天皇親政の治世時代を目指していた後醍醐天皇でしたが、当時は朝廷の皇位相続へも幕府の干渉がありました。

 

皇位は大覚寺統と持明院統の両統迭立(りょうとうてつりつ)が原則でしたので、天皇は自らの考えの政治を後継者へ継続していくことが困難であり、実権は幕府が握っていたようなものだったのです。

 

誤った政治を正し、理想の政治を実現するためにも、後醍醐天皇が倒幕を考えるようになっていくのは必然だったのかもしれません。

 

④事件の流れ

天皇の側近である日野資朝(ひのすけとも)日野俊基(としもと)は公家たちとの無礼講と称した宴会の場で倒幕の密談を重ねます。

 

 

Hino-Suketomo.jpg

(日野資朝 出典:Wikipedia)

 

 

その上で京都やその周辺の幕府に不満がある武士たちに接触、この計画へ加担する武士たちを増やしていったのです。

 

そして、1324923日の北野神社の祭礼の日を挙兵の日と決めますが、これは祭礼の警備で鎌倉側に隙が出来ると考えたからでした。

 

ところが、この計画が内部密告により発覚してしまいます。密告者は土岐頼員(ときよりかず)でした。

 

彼の妻は幕府が設置した京都を守る要所である六波羅探題(ろくはらたんだい)の役人の娘だったのです。

 

倒幕の計画を知った六波羅探題は、逆に同年9月に挙兵準備をしていた多治見国長(たじみくになが)土岐頼貞(よりさだ)頼兼(よりかね)親子の屋敷に攻め入り、彼らを討ちました。

 

続いて、日野資朝と俊基をとらえて鎌倉へ送り厳重な取り調べを行い、資朝は佐渡に流罪で俊基は無罪で帰京し謹慎となりました。

 

後醍醐天皇は北条高時に対する釈明書を送り、幕府側もある程度穏便にすませるべくこれを了承したのです。

 

倒幕を企てた首謀者としては緩い処分だったように感じますが、承久の乱の頃とは違う幕府の弱さを幕府側も感じていたのかもしれません。

 

こうして1324(正中1年)の事件は失敗に終わりました。

 

元弘の変の始まりから終わりまで

①諦めない倒幕

正中の変の後も、幕府政治の状況は変わりませんでした。さらに倒幕計画が失敗した後醍醐天皇もまだ諦めていなかったのです。

 

前回の失敗を鑑みた天皇は、今度は武士ではなく寺社の武力に頼ろうと考えます。

 

自らの息子である護良親王(もりよししんのう)天台座主(てんだいざす)として天台宗のトップに据え、自らも東大寺や興福寺などに行幸し、協力を要請していきます。

 

 

(護良親王 出典:Wikipedia)

 

 

非常にパワフルで活動的な天皇ですね。

 

また、中宮の安産祈願と称して円観(えんかん)、文観(もんかん)という僧らに幕府調伏(ちょうぷく)の祈祷も依頼します。

 

これも4年くらい続けたそうですが、安産祈願にしては長いと気づくようなものですが…とにかく執念を感じます。

 

②計画の結果

後醍醐天皇のあまりにも念の籠った倒幕の姿勢を危惧したのか、次第に計画が進んでいった中、1331年天皇の側近である吉田定房(よしださだふさ)がこの動きを幕府へ密告します。

 

 

(吉田定房 出典:Wikipedia

 

 

天皇は周りに、そそのかされたとして天皇自身へ危害が及ばないようにと思っての行動だったようですが、さすがに二度目になりますので、今度はかなり厳しい処分となりました。

 

祈祷を行っていた僧は鎌倉に送られて厳しく取り調べられ、先の事件で無罪となっていた俊基は鎌倉で斬られ、佐渡に流罪にされていた資朝も斬罪となります。

 

そして、今回は流石に天皇にも手が伸びました。

 

天皇は女装して御所を抜け出し比叡山に向かうとみせかけ笠置山へ逃げて挙兵し、それに呼応して吉野の護良親王と悪党である河内国の楠木正成もそれぞれ挙兵して幕府と戦おうとしました。

 

 

(楠木 正成 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、幕府からの討伐軍によりそれぞれ敗れてしまいます。

 

そして天皇は捕らえられ、隠岐に流罪となり、皇位は持明院統光厳天皇へ移されてしまうのです。

 

正中の変・元弘の変の影響

①倒幕の挙兵と綸旨

後醍醐天皇の流罪と皇位譲渡をもって元弘の変が終わったようにみえたのですが、その後、潜伏して機会を伺っていた楠木正成と護良親王が再び挙兵します。

 

中でも楠木正成は幕府からの攻撃を90日間も長期に渡り引き付けたまま戦いを進め、幕府軍の力の弱体化を全国に露呈させることで、各地の倒幕ムードを高めていきました。

 

そのような中でやはり執念の後醍醐天皇は隠岐から脱出、そして全国に倒幕の綸旨(りんじ:天皇の命令)を出します。

 

天皇を引退させられたのでは…とも思いますが、そんなの不当だとして発布したのでしょう。

 

そしてこれに答えたのが本来は倒幕軍の鎮圧に来たはずだった鎌倉幕府の有力御家人である足利高氏だったのです。

 

②鎌倉幕府の滅亡

足利高氏は源氏の名門である有力御家人でした。対して北条氏は平氏の一族。

 

本来の鎌倉幕府は源氏が作り上げたものでしたので、ここにきて流れがもどっていったのでしょうか。

 

味方に来たはずの足利に裏切られ、六波羅探題は陥落し、京都は制圧されました。

 

同時に鎌倉に攻め入った新田義貞により鎌倉も滅ぼされます。

 

実は新田も源氏の流れとは言え周囲への影響力は低かったようですが、この軍に名門である足利高氏の嫡子(後の足利義詮)が加わったことで、反鎌倉、反北条の勢いが増したのでしょう、天然の要塞を備えた鎌倉幕府は北条一門の滅亡により終焉を迎えることとなったのです。

 

後醍醐天皇の倒幕計画は一見2回とも失敗でしたが、その結果幕府内部の裏切りを誘導していき、最終的には目標である倒幕がここに成ったのでした。

 

正中の変&元弘の変の語呂合わせ

 

 

正中の変は・・・

「1324年(秘密にしてよ)正中の変」

 

元弘の変は・・・

「1331年(父さん再度計画)元弘の変」

 

と覚えましょう!

 

まとめ

✔ 正中の変・元弘の変は後醍醐天皇が中心となった倒幕計画のこと。

✔ 正中の変は反幕の武士に協力を募ったが、密告により失敗。

✔ 正中の変の結果、日野資朝は流罪、俊基は無罪、後醍醐天皇もおとがめなしだった。

✔ 元弘の変では寺社の武力を頼り、計画を進めたが再度密告により失敗。

✔ 元弘の変の結果、日野資朝&俊基は斬罪、後醍醐天皇も隠岐に流罪となった。

✔ 2つの事件が幕府の弱体化を露呈させて内部裏切りを誘導し、結果として鎌倉幕府は滅亡。

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