鎌倉幕府が地方に置いた役職、守護と地頭。
1185年鎌倉幕府のスタートはこの守護と地頭の設置からという説が有力です。ではなぜ、源頼朝は守護と地頭を諸国に置いたのでしょう?
今回はそんな『守護と地頭』についてわかりやすく解説していきます。
目次
守護地頭とは
(源頼朝 "みなもとのよりとも")
守護(しゅご)と地頭(じとう)とは、1185年、源頼朝が鎌倉に開いた武士政権『鎌倉幕府』が地方の諸国に設置した役職のことです。
守護はその国の軍事や警察を担当し、地頭は荘園や公領の管理や年貢の取り立てなどを行いました。
守護や地頭に任命されるのは、頼朝と主従関係を結んだ御家人とよばれる鎌倉幕府に仕える家臣たちでした。
守護地頭の設置の目的
(源 義経 出典:Wikipedia)
1185年源氏が平氏を滅ぼした壇ノ浦の戦い後、源頼朝は裏切り者の弟義経を捕まえるため、後白河法皇から警察的な役割をもつ守護と地頭を全国に設置する許可を得ました。
しかしこれは頼朝の建前で、本音は鎌倉幕府に仕える御家人を全国に配置し、鎌倉幕府の支配力を全国に広げたかったからだといわれています。
次は設置に至るまでの流れ・背景を詳しく解説していきます。
守護地頭を設置した背景
(平 清盛 出典:Wikipedia)
①平氏の滅亡
源氏より一足早く武士として政治の実権を握った平清盛。
清盛は、武士の中で初めて朝廷トップの要職太政大臣のポジションを与えられたのをいいことにやりたい放題。
1179年には院政で実権を握っていた後白河法皇の権力を奪い、幽閉したほどです。
院政とは天皇を早々に引退した後、上皇または法皇となって政治を行うことです。
朝廷内での清盛の横暴なやり方に、それまでずっと政治を動かしてきた朝廷の貴族たちは不満と反感を募らせました。
一方で、武士であるにもかかわらず、日宋貿易で得た経済力と朝廷内の要職について権力を持ち、どんどん貴族化する平氏に対し、平氏以外の武士たちも不満と反感を募らせました。
そして1180年、後白河法皇の子以仁王(もちひとおう)の命により、“打倒平氏”を掲げ、鎌倉を本拠地とする源頼朝をはじめ、各地の源氏が挙兵しました。
これは5年もつづく全国的な内乱となり、治承・寿永の乱と呼ばれています。
平氏との戦いに決着をつけたのは、頼朝の弟義経でした。1184年一の谷の戦い、1185年屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦いと次々と平氏を破り、大活躍。
ついに平氏を滅亡させました。
②義経を理由に守護地頭を設置
1185年に平氏が滅亡すると、後白河法皇は、平氏を滅ぼした源氏のトップ源頼朝の力を恐れるようになりました。
そこで、後白河法皇は朝廷側に義経をとりこみ、兄頼朝を討ち取ることを命じました。
しかし、義経は失敗。頼朝の反撃を恐れ、少年時代を過ごした奥州平泉(岩手県)の藤原秀衡(ひでひら)もとに身を寄せました。
後白河法皇が後ろで糸を引き、弟に命を狙われて怒り心頭の頼朝。後白河法皇のいる京都へ軍を送り、法皇に“義経を殺す”という命令を出させました。
法皇の命令が出されたことで、義経を殺す大義名分ができたわけです。
さらに、平氏や義経のことで朝廷に“貸し”がある頼朝は法皇に対してさらに強気にでます。
頼朝は逃げている義経を捕まえることを口実にして、後白河法皇に地頭と守護を設置することを認めさせ、その任命権も得ることができました。
こうして、頼朝の家臣である御家人を全国に守護や地頭として派遣することが可能となり、武士たちによる政権、鎌倉幕府の全国支配へむけた第一歩となりました。
ちなみに義経は、頼朝の圧力を受けた藤原氏に裏切られ、自害しました。
③鎌倉幕府成立
鎌倉幕府が成立した年にはいくつかの説がありますが、守護と地頭が全国に置かれ、鎌倉幕府の権力が全国に広がった1185年が有力となっています。
『いい箱(1185)つくった鎌倉幕府』と覚えるのが良いでしょう。
守護地頭の詳しい内容
守護は各国に1人配置され、鎌倉幕府の有力な御家人の中から選ばれました。
その国の軍事や警察を担当し、国内の御家人を取り締まりました。
職務は、大犯三カ条(たいぼんさんかじょう)。大番催促、謀叛人(むほん)逮捕、殺害人逮捕の3つです。
大犯三カ条
✔ 大番催促の大番・・・朝廷の警備業務を行う京都大番役のこと。
守護は、この京都大番役に就く人物を鎌倉幕府の御家人から任命し、指揮することができました。
✔ 謀叛人逮捕・・・幕府や朝廷に反抗した人を逮捕すること。
✔ 殺害人逮捕・・・殺人犯を逮捕すること。
地頭も御家人の中から選ばれ、荘園や公領にそれぞれ1人配置されました。
職務は年貢の取り立てや土地の管理、治安維持を任されました。
荘園は朝廷の支配から独立した私有地、公領は国司が支配する土地のことです。
守護地頭の設置後
701年の大宝律令制定以来、長い間政権を独占してきた朝廷の勢力は強く、出来立ての武士政権である鎌倉幕府の支配は、朝廷のおひざ元の畿内や西国にまではなかなか広がりませんでした。
また、昔から諸国には朝廷から国司が派遣され、統治していました。
そのため、諸国は鎌倉幕府から派遣された守護と朝廷から派遣された国司による二重支配となり、対立するようになりました。
その後、鎌倉時代を経て、室町時代になると守護は国内の武士を家臣にして勢力を強め、一国を支配する守護大名として成長していくことになります。
守護と同じように、地頭が派遣された荘園や公領にも、朝廷から任命された荘官や郷司がいました。
鎌倉幕府成立当初は、畿内や西国での朝廷の勢力は大きなものでしたが、1221年の承久の乱後、鎌倉幕府の権力は畿内や西国にまで拡大しました。
そして、地頭は幕府の権力を後ろ盾に、荘園を侵略するようになりました。
承久の乱は、後鳥羽上皇率いる朝廷が執権の北条義時率いる鎌倉幕府に挙兵したものの、敗北した戦い。
後鳥羽上皇、土御門(つちみかど)上皇、順徳(じゅんとく)上皇の3人はそれぞれ隠岐、土佐、佐渡への流罪となり、以後、朝廷の権力は衰えていきました。
まとめ
・守護と地頭は、1185年源頼朝が地方の諸国に設置した役職のこと。
・頼朝は弟の義経を討つことを口実に、守護と地頭の設置を後白河法皇に認めさせた。
・守護はその国の軍事や警察を担当した。
・地頭は荘園や公領の管理や年貢の取り立てなどを行った。
・守護や地頭に任命されるのは、鎌倉幕府に仕える御家人。
・守護の職務は大番催促、謀叛人逮捕、殺害人逮捕の大犯三カ条。
・鎌倉時代初めは朝廷の勢力が強く鎌倉幕府の支配は畿内や西国にまで広がらなかった。
・諸国には朝廷から派遣される国司がいたため、幕府側の守護との二重支配になった。