江戸後期の対外政策として出された天保の薪水給与令。

 

江戸幕府の諸外国への対応と鎖国政策の終わりの流れを知るために重要なものです。

 

今回はそんな『薪水給与令(しんすいきゅうよれい)』が出された時代背景やその後の流れも含めてわかりやすく解説していきます。

 

天保の薪水給与令とは 

(老中 水野忠邦 出典:Wikipedia

 

 

天保の薪水給与令とは、1842年(天保13年)に当時の老中水野忠邦により出されました。

 

それまで幕府は異国船打払令を出し、諸外国には強硬姿勢を保っていました。

 

しかし、その方針を転換し遭難した船に限り、燃料・食料の補給を認めるようになりました。これが天保の薪水給与令です。

 

外国との戦争を避けるため対応を軟化せざるを得なかったのです。

 

天保の薪水給与令の背景 

(長崎の出島 出典:Wikipedia

①欧米諸国の接近と文化の薪水給与令 

江戸時代、長く日本は鎖国政策をとっていました。

 

鎖国政策とはキリスト教布教の防止、貿易の管理を目的とした諸外国への対外政策のことを言い、当時は朝鮮、オランダ、中国とのみ交流をしていました。

 

しかし、江戸時代後期になると欧米諸国が貿易を求めて日本近海に現れることが増え幕府は対応に苦慮していました。

 

来航した外国船との交渉を拒否していた幕府は1806年に文化の薪水給与令を出します。

 

これは立ち寄った外国船に対して燃料や食料の補給を認めるもので、幕府が交渉を拒否した外国船に穏便に退去してもらうことが狙いでした。

 

②文化の薪水給与令の撤廃

1804年にロシアのニコライ・レザノフが来航し貿易を求めて交渉を行いました。

 

レザノフは幽閉に近い状態で半年間過ごした上に交渉もまったく進まなかったことから、ロシアは日本に対して武力による開国を求めようとします。

 

そして、1806年にレザノフの部下であるニコライ・フヴォストフが利尻島、択捉島を襲撃し日本人をロシアに連行するという文化露寇が起こります。

 

江戸幕府は蝦夷地防衛に乗り出しましたが、多くの被害を出し、日本とロシア間の緊張が高まる事態になります。

 

これにより国防の強化の必要性を感じた江戸幕府はわずか一年で文化の薪水給与令を撤廃し、1807年にはロシア船打払令を出します。

 

③異国船打払令の発令

文化露寇の後も外国船は日本近海に現れ、たびたび事件が起こります。

 

1808年にはイギリス軍艦であるフェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質に取り薪水・食料を強要するフェートン号事件が起こります。

 

1811年にはロシアのゴローニンが燃料を求めて来航しましたが、ロシア船打払令により砲撃され、約二年間幽閉されるゴローニン事件が起こりました。

 

1824年には水戸藩の大津浜事件、薩摩藩の宝島事件と、イギリス船が来航したことによる事件が続けて起こります。さらに同じ1824年に水戸藩の漁師が数年前から欧米の捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚し、300人以上が取り調べを受けました。

 

これらの事件がきっかけとなり、江戸幕府は1825異国船打払令を発令し、当時貿易をしていたオランダ・清(中国)以外の日本沿岸に来航した外国船を見つけ次第砲撃することを命じました。

 

 

④モリソン号事件

異国船打払令を出し、江戸幕府は諸外国に対して強硬姿勢をとります。

 

そうした中で1837年にアメリカのモリソン号が漂流した日本人の送還を兼ねて、貿易の交渉を目的として来航します。

 

しかし、浦賀奉行所は異国船打払令に従ってモリソン号を砲撃、退去させます。これをモリソン号事件と言います。

 

翌年、オランダ商館長からモリソン号が漂流した日本人の送還を兼ねて来航していたことを伝えられ、日本国内では幕府の強硬政策に対する批判が高まりました。

 

 

⑤アヘン戦争による影響

 1840年~1842年のアヘン戦争によるイギリスの勝利は強硬姿勢をとる江戸幕府にさらなる動揺を与えます。

 

アヘン戦争とはイギリスと清との間の戦争で、イギリスが清国内にアヘンを密輸し、清国政府がイギリス商人を追放したことを原因として起こりました。

 

江戸幕府は清を高い軍事力を持つ大国と考えていたため、その敗北に衝撃を受けます。

 

それまで異国船打払令を出し、強硬姿勢をとっていましたが、方針転換を余儀なくされ天保の薪水給与令が出されたのです。

 

 

天保の薪水給与令の内容・目的

①天保の薪水給与令の目的

1842年に幕府の方針転換として出された天保の薪水給与令は異国船打払令を緩和したもので遭難した船に対して燃料・食料の補給を認めるものでした。

 

この薪水給与令は欧米諸国との戦争を回避することを目的としていました。

 

それまで幕府は日本沿岸に来航した外国船は見つけ次第砲撃するという姿勢をとっていましたが、それが原因となり戦争が起こる危険性や報復を受ける恐れがありました。

 

またモリソン号事件のように調査を行わずに砲撃を行うことは、国外からの批判が高まることも考えられました。

 

清の敗北で欧米の軍事力の高さを知り、さらに日本へ進攻してくることを懸念した幕府は、まず来航した外国船を調査し、必要があれば燃料・食料の補給を許可するよう、対応を変化させたのです。

 

②天保の改革

 また、この天保の薪水給与令は天保の改革が行われていた中で出されました。

 

当時日本はモリソン号事件、アヘン戦争など諸外国との問題だけでなく、天保の大飢饉、それによる一揆や打ちこわしなど国内でも大きな混乱が起こっていました。

 

そのような中で幕府財政の立て直しを図って老中水野忠邦が行った改革を天保の改革といいます。

 

 

天保の薪水給与令の影響

(復元されたオランダ商館 出典:Wikipedia

①オランダの開国通告

幕府は天保の薪水給与令を発令し、諸外国への対応を軟化させましたが、鎖国政策はとり続けていました。

 

天保の薪水給与令発令後、幕府はオランダ商館を通じて欧米諸国へそのことを伝えるよう依頼しました。

 

これを受けて1844年にオランダは「これ以上日本が鎖国政策を続けることは困難」として開国を進める通告を行いましたが、当時の老中阿部正弘はこれを断りました。

 

②ビッドルの来航

さらに1846年にはアメリカのビッドルが通商を求めて来航しましたが、新たな通商は困難として浦賀奉行所が拒否し、ビッドルは穏便に退去しました。

 

欧米諸国との軍事力の差は歴然としており、危機感を持った幕府は江戸湾の防備、海防を強化するよう図りましたが財政難となっていた日本国内では、十分な強化は困難でした。

 

この7年後には浦賀にペリーが来航しますが、実はそれ以前にオランダ商館長からペリー来航は伝えられていました。

 

しかしそれを受けた阿部正弘は情報を極秘扱いとし、特別な対応策はとられませんでした。

 

こうして日本は1853年、ペリー来航を迎え、長く続いた鎖国政策の終わりを迎えることとなるのです。

 

 

まとめ

 天保の薪水給与令とは外国船に燃料・食料の補給を認めるもので1842年に発令された。

 薪水給与令は1806年にも出され、一度廃止され異国船打払令が出された。

 天保の薪水給与令はアヘン戦争を受けて、異国船打払令を軟化させて出されたものである。

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