“倭の五王”といえば、ああ確かに歴史で聞いたことがある!と浮かぶ人は多いと思われます。

 

しかし、その詳細は…と聞かれると答えることは少し難しいかもしれませんね。

 

資料に乏しい時代の為、歴史的にも明確にできない部分もありますが・・・今回はこの『倭の五王』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

倭の五王とは?

(北魏と宋 出典:Wikipedia

 

5~6世紀南北朝時代の中国「宋」の歴史書「宋書」の中に“倭の王としての地位”と“朝鮮半島南部での軍事的な指揮権”を認めてもらうよう何度も倭の王から使いが送られたと記されています。

 

この使いを送った五王(:さん・珍:ちん・済:せい・興:こう・武:)のことを「倭の五王」と呼んでいます。

 

東アジア情勢と日本

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まず「倭の五王」が歴史書に現れるまでの東アジアの情勢と日本との関わりについてみていきましょう。

 

①東アジアのリーダー

古代中国は文明の最先端を進んでおり、漢字・青銅器・儒教・鉄器・騎馬術等など色々なものが用いられるようになっていました。

 

中国は東アジアのリーダー的存在であり、その動向や国の興亡などが周辺諸国に与える影響は非常に大きいものだったのです。

 

②朝貢(ちょうこう)

【朝貢】とは、周辺諸国の支配者が中国に使者を送り、皇帝に貢ぎ物を差し出す制度のことです。

 

貢ぎ物を送ることで支配者としての地位を中国の皇帝から認めてもらうほか、お返しに絹や銅銭など得ることができたので、非常に有益な制度だったと考えられています。

 

この制度は19世紀に欧米諸国の勢力が入るまで約2000年も続いていったのです。  

 

③中国と朝鮮半島

「漢」は朝鮮半島に存在していた国家を滅ぼし「楽浪郡:らくろうぐん」をおき支配するようになります。

 

この頃の歴史書【「漢書」地理誌】には紀元前1世紀頃、倭(日本)には100余りの国があり、中には楽浪郡を通じて漢に使いをおくる国もあったと記されています。日本では弥生時代後半です。

 

その後、中国の支配力が弱まると、高句麗が朝鮮半島で台頭してきます。

 

「後漢書」東夷伝】には1世紀半ばに倭の「奴国」王が使いを送り、皇帝から金印を授けられたと書かれています。

 

江戸時代に福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」と書かれた金印のことです。

 

ちなみに金印は使者を送る国王が中国皇帝にあてる文書に封をするのに使用したものだそうです。

 

三国時代になると、中でも力を強めていた「魏」が一時的に高句麗の首都を攻略し、朝鮮半島の支配権を得ます。

 

日本では有名な女王卑弥呼が国内の内乱を治め、魏に使いを送り『親魏倭王』の称号を授かったと「魏志倭人伝」の中に記されていますね。

 

④朝鮮半島への日本進出

中国がその後混迷の時代となると、朝鮮半島北部では高句麗が楽浪郡を滅ぼしました。

 

半島南部では百済・新羅が小国連合体を統一、残った地域は伽耶地域(かやちいき)/任那(みまな)と呼ばれるようになっていきます。

 

日本では奈良盆地周辺地域に有力豪族によって構成される大和政権が誕生していったと考えられていますが、この大和政権が任那に進出、百済と手を組み高句麗や新羅と対立していきました。

 

高句麗好太王の碑文(こうたいおうのひぶん)にはその交戦の記録が残されています。

 

「倭の五王」の登場

 

ついに5~6世紀「宋」の歴史書に登場する「倭の五王」たちですが、彼らが次々と使者を送ったのは何故だったのでしょうか。

 

①大和政権の確立へ

稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣や江田船山古墳(熊本県)出土の鉄刀、そして古墳の分布などから、5世紀には大和政権の王は九州地方から東北南部まで各地の豪族を従えていたことが分かっています。

 

しかし、地方豪族の反乱などこの時期にはまだ不安要素も多かった為、中国皇帝から“倭国の王”として認めてもらうことは他勢力への威嚇の意味でも非常に大切だったのです。

 

②先進技術と資源の確保

国内支配力強化の為、大和政権にとっては大陸の先進文化を取り入れることは大変重要でした。

 

特に鉄器は戦いや農作業に大きな変革をもたらしたのです。

 

この当時鉄資源が朝鮮半島で多く採れていたため、任那を足掛かりとして半島進出が進められていったのですが、同様に高句麗や新羅も資源を求め半島を南下してくるようになりました。

 

この半島での対立をより優位に進めるためにも中国皇帝の権威が必要不可欠でした。

 

倭の五王の朝貢内容

 

ではそれぞれの王の朝貢の内容について簡単にみていきましょう。

 

①讃

421年に最初の使いを送った王です。

 

当時「宋」は建国したばかりでまだ権威もあまり高くはありませんでしたが、それでも朝貢に訪れたということで、宋側からも使者は大歓迎されたそうです。

 

『安東将軍・倭国王』の称号をこの時もらいました。

 

②珍

438年、讃の亡き後、弟である珍が使者を送ります。

 

珍は自らに高句麗や百済の王よりも高い位の称号を望みますが、讃同様の称号しかもらえませんでした。

 

ただし自分の部下への称号も要求し、それはもらうことが出来たようです。

 

③済

443年の使いでは珍亡き後の即位の報告をし、これまでの王と同様の称号を得ます。

 

さらにその称号だけでは不服だった済は451年にも使者を送りました。

 

この時には『使持節(しじせつ)・都督(ととく)倭・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)六国諸軍事』という、さらに上級の称号を追加でもらうことが出来ました。

 

これには、その頃「宋」が「北魏」に大敗したため、他の諸国との協力体制を強化したいという狙いがあったようです。

 

④興

462年まだ即位前ながら使者を送ります。

 

この際に『安東将軍・倭国王』の称号をうけたことだけはわかっていますが、即位前に使者を送った理由は不明です。

 

⑤武

興の弟である武は478年の使いの際に最初から『使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍倭国王』という称号を受けます。

 

武は「宋」の後479「南斉」の建国の際には『鎮東大将軍』を、501「梁(りょう)」建国時には『征東大将軍』を受けたとそれぞれの歴史書に記されています。

 

いずれの王も、高句麗に対抗した権力を希望し、百済の支配権も欲したとされています。

 

残念ながら「宋」にとっては地理的にも高句麗や百済の方が重要視されていたようで、武にいたるまでこの2国の上位になる称号をもらうことは出来ませんでした。

 

倭の五王は誰なのか

 

ではこれら5人の王はいったい誰だったのでしょうか。

 

①記紀(古事記・日本書紀)との比定

五王の正体については、日本の資料『古事記』『日本書紀』と比定(同質のものがない場合、他の類似のものと比べてそれがどんなものか推測すること)するしかありません。

 

その中で、武に関しては、資料の内容が類似し、さらに武=タケルと読めることからも“ワカタケル大王”とされる雄略天皇であるといえますが、これは信憑性が高いとされています。

 

そこから人物関係などを考えて・・・

「讃」履中天皇(りちゅう)「珍」反正天皇(はんぜい)「済」允恭天皇(いんぎょう)

「興」安康天皇(あんこう)「武」雄略天皇(ゆうりゃく)

という説が現在普及しています。

 

②謎に満ちた五王

五王を比定する資料【記紀】が時の権力者の意向を汲んでいる点も踏まえ、その他にもいろんな説があります。

 

2つほど挙げてみます。

 

(1)九州五王説

記紀に朝貢の記載がない点などから、これは大和政権の王ではなく、中国に近い九州地方の有力者だったのではないかとする説

 

(2)百済からの亡命者説

当時百済が高句麗に攻められた際、百済の王一族が九州に逃げて、その後土着した王族が朝鮮半島での権力の正当性を主張し、朝貢したとされる説

 

今もなお多くの謎に包まれる「倭の五王」ですが、この度世界遺産に登録された【百舌鳥・古市古墳群】の代表的な大きな墳墓が、これら倭の五王のものであるのではないか、とする説を唱える人もいるくらいです。

 

まとめ

 「倭の五王」とは5~6世紀ごろ「宋書」に記載されている朝貢した五人の倭の王のこと。

 古代から東アジアのリーダーである中国には多くの国々が朝貢をしていた。

 中国の興亡が周囲の国々に与える影響は非常に大きく、特に朝鮮半島はその影響をうけた。

 朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国時代になっており、大和政権は任那を足掛かりに半島へ進出し、百済と協力して高句麗・新羅と対立した。

 「五王」が朝貢したのは国内政権の確立と朝鮮半島での争いに優位に立つためだった。

 「五王」は「讃・珍・済・興・武」の五人とされるが、その倭国名は定かではない。

 通説では「履中・反正・允恭・安康・雄略天皇」とされるが、曖昧な点も多い。




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