日米間には様々な条約や協定があります。

 

『石井・ランシング協定』もその一つ。

 

名前も内容もつかみどころのない協定ですが、意外と面白いんです。

 

今回は、石井・ランシング協定についてわかりやすく解説していきます!

 

石井・ランシング協定とは

(1917年 協定締結時の石井とランシング 出典:Wikipedia

 

 

石井・ランシング協定とは、1917年(大正6年)にワシントンで日本の全権『石井菊次郎』とアメリカ『ロバート・ランシング』との間で結ばれた協定です。

 

ここからは、どういった背景でむすばれたのか、また内容はどういったものなのか、わかりやすく解説していきます。

 

石井・ランシング協定の背景

(袁 世凱 出典:Wikipedia

 

 

第一次戦争中の日本は袁世凱政権に対華21か条の要求を突きつけ、大量のお金を軍閥へ貸し出すなどして中国への進出を強めていました。

 

 

同じように中国進出を狙っていたアメリカとは関係が冷え込んでいましたが、1917年、アメリカの第一次世界大戦参戦を機に日米関係の改善が図られました。

 

日本の全権大使石井菊次郎と、アメリカ国務長官(国務長官は日本でいう外務大臣のこと)ロバート・ランシングの間で石井・ランシング協定が結ばれ、これによって日米関係は一時的に改善されました。

 

石井・ランシング協定の内容

内容は主に以下の3つです。

協定の内容

・中国はひとつである(領土保全)

・日本とアメリカはアメリカの門戸開放・機会均等の原則を支持する

・アメリカは日本の満蒙における特殊権益をみとめる

 

 この内容に目を通すと・・・なぜ中国の領土保全や機会均等の話をした後で特殊権益を認めてしまうんでしょうか。

 

この協定を結ぶことで日米関係ほんとに良くなったのか?という疑問もわいてきます。

 

協定が分かりにくい・スッキリしない理由

なんでこんなにすっきりしない協定なのでしょうか。それは、日米の衝突を「とりあえず」避けるための協定だからです。

 

石井・ランシング協定が結ばれたのは1917年、第一次世界大戦中です。日本とアメリカは同じ連合国側として戦っていました。

 

大戦の主戦場はヨーロッパで、イギリスやフランスがドイツと必死に戦っています。そんな時に中国をめぐって日本とアメリカがもめるのはどうにもマズイ、ということでこの協定が結ばれました。

 

とりあえず、お互いに中国でやりたいことはわかったよ、今ケンカするのはやめようね、という協定なのです。

 

あいまいな文言を盾に日本は中国に対する権益を広げようとしますが、大戦後のワシントン体制(九か国条約)によって中国進出をけん制されます。

 

日米の駆け引きはこの後も続き、第二次世界大戦に突入するのです。

 

 

 

アメリカのモンロー主義 

(第5代米大統領 ジェームズ・モンロー 1823年にモンロー主義を演説で発表した)

 

 

アメリカは外交では伝統的に孤立主義(モンロー主義)をとっており、アメリカ大陸以外の領土に対しては干渉しない主義でした。

 

しかし、アメリカ国内にフロンティア(未開拓の土地=インディアンの土地)がなくなると、カリブ海の島々も支配下におくようになります。

 

その後、太平洋のハワイやフィリピンを領有すると、中国にも目を向けます。

 

ところが中国はすでに列強による分割が進み、アメリカの出る幕ではありませんでした。

 

アメリカは自国製品を売り込む市場としての中国にチャンスを見出し、これを実現するために様々な要求をしていくのです。

 

①扉あけて、チャンスは平等に

アメリカは列強に対して中国の門戸開放・機会均等をよびかけます。

 

これは中国の人がドアを開けてアメリカ人を待ってて!ということではなく、列強の皆さん自由貿易でお願いします、ということです。

 

たとえば中国に領土を広げて国境を作り、国境を超える物品に対してアメリカだけ高関税をかけたり、港を支配して自分の国の船だけ優先的に入れて、他国の船には法外な入港料を取るなどはやめてよね、ということなんです。

 

「市場の扉を開けておいてOpen Door」、「遅れてきたアメリカにもチャンスを平等にくれ」というのが門戸開放・機会均等です。

 

②アメリカは農業国、工業国

アメリカは広い国土でたくさん農産物を作っていて、つねに売り先を探しています。

 

また工業の発展も著しく、この販売先も必要です。

 

門戸開放・機会均等であれば、アメリカの商品は売れるんだという自信のもとにアメリカは中国に対してこの姿勢を取り続けます。(今も結構そうですね!)

 

日本の大陸進出とアメリカ

 

 

対する日本は開国以来、列強からの圧力にさらされる中、自らも帝国主義政策を取ることによって列強の仲間入りをしようとしていました。

 

ヨーロッパの列強は植民地から原料を調達し、自国で加工して植民地や外国に販売することで大儲けをしていました。

 

同じことをやろうにも日本には大規模な鉱山や未開拓の広大な土地はなく、中国大陸でも地下資源の豊かな満州・蒙古に狙いをつけたのです。

 

1906年には南満州鉄道を設立し、さらに関東都督府をおいて日本は満州の経営を始めます。

 

日本同様に満州の権益を狙っていたアメリカは、満鉄の共同経営を持ちかけたりしていたのですが、日本が一国で満州の経営を始めたため、日米関係は冷え込んでいきました。

 

1908年には日本はロシアに接近して数次にわたる日露協約を結んだため、ますますアメリカとは疎遠になっていました。

 

しかし、1917年日露協約はロシア革命のため破棄されてしまいます。

 

満州の権益をロシアに認めてもらっていた日本はピンチに陥ります。

 

このピンチと日米関係を打開するために結ばれたのが石井・ランシング協定でした。

 

協定を結び、お互いの立場を理解して衝突を避けようとしたのです。

 

まとめ

・石井・ランシング協定は、全権大使石井菊次郎と米国務長官ロバート・ランシングによって結ばれた協定。

・中国大陸に関する日米の権益についてお互いの立場を確認した。

・日本は、アメリカの門戸開放政策の支持を支持した。

・アメリカは、日本の満蒙における特殊権益を認めた

・悪化していた日米関係は一時的に改善した。

 

おまけ!第一次世界大戦前後の日米関係

太平洋を挟んで隣同士の国、日本とアメリカは中国や太平洋の島々をめぐっていくつもの協定や覚書を交わしています。

 

・1905年 桂・タフト協定

 

外務大臣桂太郎と米国特使ウィリアム・タフトの間で結ばれた協定です。アメリカのフィリピン統治と日本の韓国に対する優越的支配を相互に認め合いました。

この協定と日英同盟の改定、ポーツマス条約によって、日本の韓国における権益は列強に認められました。

 

・1908年 高平・ルート協定

 

石井・ランシング協定に先立つこの協定はハワイとフィリピンの管理権の承認、清国の領土保全と門戸開放、機会均等、満州における日本の地位の承認からなっています。

 

この協定を結んだ次の年、日本はロシアに接近して日露協約を結んだため、この協定の意義はかすんでしまいました。

 

・1917年 石井・ランシング協定

 

・1922年 九か国条約

 

1922年のワシントン会議で交わされたこの条約によって石井・ランシング協定は破棄され、日本は山東半島における権益のほとんどを返還しました。

 

九か国条約の門戸開放、機会均等、主権尊重の方針のもと、列強の中国分割は避けられる方向になりましたが、日本だけは進出を続け、1937年には9か国条約は事実上無効になりました。

 

 またまたおまけ!何回も同じ覚書があるってことは・・

歴史では繰り返し同じような禁制がでたり、同じような内容の協定が何度も交わされたりします。

 

内容が似ていて覚えにくい!ので日本史学習者にはやっかいな存在ですが、見方をちょっと変えてみましょう。

 

禁止する、ということはやる人がいるのです。

 

何回も同じ協定がでているということは、お互いに信じ切れていない可能性があります。

 

たとえば「ゲームは時間を守る」という母親との協定は、繰り返し子供との間で結ばれます。これは守られないことがあって、信じ切れていないからですね。

 

また、「授業参観、絶対来てね」という協定は来ない心配があるから結ばれるのです。

 

日米の中国に関する協定も同じような内容が繰り返されているのは、お互いに相手を信じきれなかったのかもしれませんね。

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