柳条湖事件と盧溝橋事件、どちらも昭和初期に中国大陸で起きた日本と中国の衝突です。
いずれの事件もその後戦争へと発展していきました。
今回はこの二つの事件「柳条湖(りゅうじょうこ)事件」「盧溝橋(ろこうきょう)事件」の違いについて簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
柳条湖事件と盧溝橋事件の違い
(満州事変の時に撮れられた関東軍 出典:Wikipedia)
「柳条湖事件」「盧溝橋事件」の違いは以下の通りです。
それぞれの事件について
→この事件をきっかけに、満州事変(同年1931年に発生)が起こりました。
✔ 盧溝橋事件・・・1937年(昭和12年)に北京郊外の盧溝橋で起こった日本軍と中国軍の衝突。
→この事件をきっかけに、日中戦争(同年1937年に発生)がはじまりました。
どちらも中国大陸で起きた日中の軍事衝突で、その後戦闘状態が拡大し、事変という名の戦争が起きていることには違いがありません。
しかし、柳条湖事件が日本軍主導で起きたものに対し、盧溝橋事件は中国軍から始まった事件です。
柳条湖事件のあとの満州事変は満州という中国の一地方で起きた戦いであり、限定的な戦いだったと言えますが・・
盧溝橋事件のあとに起きた日中戦争はより広大な中国全土が対象になったことと、中国側の国民党や共産党の事情もあり終わりの見えない戦いになっていきました。
また、柳条湖事件のときの日本政府は現地での軍事行動が拡大されるのを避ける方向で動いていましたが、盧溝橋事件は一旦現場で解決したにも関わらず、政府が軍を派遣することによって再燃しました。
盧溝橋事件に限らず、現地の日本人が中国軍に襲われるという事件がしばしば起きていたこともあり、日本人の中国に対する感情もよくはありませんでした。
当時、暴支膺懲(ぼうしようちょう)と言って、暴虐な支那を懲らしめよという言葉もあったのです。ですから当時の世論に引っ張られて政府が動いた、という側面もあります。
ここからは、「柳条湖事件」「盧溝橋事件」それぞれについて詳しく解説していきます。
柳条湖事件について詳しく
(柳条湖の爆破現場 出典:Wikipedia)
①現地軍の暴走によって起こった事件
柳条湖事件は、1931年(昭和6年)に満州(今の中国東北部)で起きた出来事です。
当時日本が権益を持っていた南満州鉄道(満鉄)の線路が柳条湖という場所で何者かに爆破されるという事件が起きました。
爆破そのものは小規模で、事件が起きたすぐ後に列車が通過しても脱線などの事故が起こらず、無事だったことからも明らかになっています。
現地駐屯の日本軍である関東軍はこの事件を中国軍の犯行と発表しました。
しかし、実際にはこの事件は関東軍が自ら行った謀略だったのです。
この事実を日本国民が知るのは太平洋戦争終結後。戦時中は関東軍が発表したことを大多数の日本人は事実だと思っていたのです。
この事件をきっかけに、関東軍は中国軍に攻撃をしかけます。
中国軍、といっても統一政府ではなく、満州を支配していた張学良の軍隊でした。しかも主力は北京にいるので残存部隊だけです。
一方、関東軍は日本軍の中でも精鋭ぞろいとされていました。
こうして始まったのが満州事変になります。
当初、日本政府や軍中央は事件を拡大させる方針はありませんでしたが、現地軍が無断で戦域を拡大していき、それに引きずられる形で政府も現地軍の行動を認めざるを得なくなりました。
②満州国の建国から日本の国際的孤立まで
蒋介石が張学良に日本軍に対して積極的に抵抗しないように促したこともあり、わずか6カ月で日本軍は全満州を占領。
清朝最後の皇帝であった溥儀をたて、満州国を建国します。
もともと清朝は満州地方を拠点にしていましたので、縁のある人物をトップに据えたことになります。
しかし、この国は日本の傀儡国家でした。満州国の要職には日本人が配置され、溥儀はただの飾りにすぎなかったのです。
当初、日本の満州での軍事行動は自衛のためのものとして国際社会も日本の行動を好意的に見ていました。
しかし、満州全土の占領と満州国建国で警戒感を持たれてしまいます。
国際連盟はこの状況に対してイギリスのリットン卿をリーダーとするリットン調査団を満州に派遣、満州国の実態を調べました。
結果、日本の満州における権益は認めるものの、軍事行動は自衛とは認められませんでした。
この決議に日本は反発し、1933年(昭和8年)国際連盟を脱退。
こうして日本は国際的孤立の道を歩むことになります。
盧溝橋事件について詳しく
(盧溝橋周辺を撮った航空写真 出典:Wikipedia)
①日中の軍事衝突
盧溝橋事件は、北京の郊外にある盧溝橋で起きた日中の軍事衝突です。
北京に日本軍がいた理由は1900年(明治33年)に起きた義和団事件まで遡ります。
この事件の結果結ばれた北京議定書において、日本を含む列強国の駐兵が北京などに認められていました。
1937年(昭和12年)7月7日夜、盧溝橋付近でこの日本軍部隊が演習を行っていました。
ちょうどその近くに蒋介石の中国国民党軍の部隊も展開していました。
午後10時40分ごろ日本軍が空砲を発射したところ、中国軍いる方向から実弾が飛んできました。
これを機に日本軍は中国軍と武力衝突することになります。
数日の戦闘ののち、現地では日中双方の代表者による話し合いが持たれ一旦は収集します。
しかし、日本政府は増援軍の派遣を決定。中国側も共産党が国民党と協力して日本と戦う国共合作を主張、蒋介石も徹底抗戦の決意を表明しました。
こうして日本は中国との泥沼の日中戦争に陥っていくのです。
チェック!!
ちなみに当初、日中戦争は支那事変と呼ばれていました。
事変とは宣戦布告を伴わない戦闘状態のことを指し、柳条湖事件であげた満州事変も同じものに当たります。
宣戦布告を行い、戦争になってしまうと日本と中国以外の第三国は中立を守らないといけません。
日本は国際的孤立を避けるため、そして中国はアメリカなどからの支援を得るため、双方とも戦争という形は避けたかったのです。
日中戦争は両国の外交官によってはたびたび和平の試みがありました。
しかし、その度に中国軍の日本軍への攻撃があり、解決しなかったのです。
このことには蒋介石が中国世論を無視してでも抗日戦争を続けなければ中国軍の支持を失い、失脚していた可能性があるから、という指摘もあります。
②誰が一発目を撃ったのか?
盧溝橋で日本軍に向けられた発砲は誰が撃ったのか、には諸説あり未だ定まっていません。
国民党軍によるものなのか、中国共産党軍によるものなのか。また、偶発的な事件だったのか、計画的に行われたのか。
中国軍の計画的な行動だとする根拠は、事件発生とともに中国軍による街道の閉鎖や飛行場の占拠、電話線の切断などの出来事があったからです。
しかし、当時は積み重なった中国の日本への不信感・反感からいつなんどき日中両軍の衝突が起こっても不思議ではない状態でした。
北京には日本軍が駐留していましたので、予め中国側も兵力や設備を整えていました。
このとき対日本軍用に展開していた中国軍は抗日意欲が高い部隊で、国民党側からの中堅将校だけでなく中国共産党員も多く含まれていた部隊でした。
発砲が偶発的なものであったとしても、このような状態だったので中国軍の動きも素早かったのかもしれません。
中国共産党は日本を戦争に引きずり込み、持久戦を行うことで中国国内に共産党を浸透させるつもりでした。
実際、この後は共産党が思い描いたとおりに進んでいき、日中戦争のあとの国共内戦でも勝利をおさめます。
まとめ
✔ 柳条湖事件も盧溝橋事件も中国で起きた日本と中国の軍事衝突のこと。
✔ 柳条湖事件をきっかけに満州事変が、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、どちらの事件もその後戦争に発展していった。
✔ 柳条湖事件は日本側、盧溝橋事件は中国側が発端であった。
✔ 日本政府は柳条湖事件については不拡大方針を取ったが、盧溝橋事件は援軍を派遣した。
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