江戸時代中期以降、農村で貧富の格差が大きくなります。

 

富農層と貧農層に分かれ、村の中で制度などが出来上がってくると、今度はその制度に対する改革運動が起こります。それが村方騒動です。

 

今回はこの『村方(むらかた)騒動』についてわかりやすく解説していきます。

 

村方騒動とは?

 

 

村方騒動は、小前(こまえ)百姓村役人層の不正や独断を領主に訴えたという特徴があります。百姓一揆と違って規模は小さいのですが、百姓たちが生活に根ざした要求を訴えて、その目的を達したことが多いのも注目する点です。

 

年貢や小作料、村政運営などについての要求が主でした。農村内部で、地主となった豪農層に対して、小作人などの中下層農民たちが民主的な村政を求め、全国的に広がった闘争と言えます。

 

全国各地で3000件余りの騒動が記録されていますが、実際にはさらにおおくの騒動が発生したと思われます。

 

村方騒動が起こった背景

 

 

村方騒動は百姓による生活改革運動と言えますが、村方騒動が起こった当時の農村にはどのような制度があったのでしょうか。

 

①江戸時代中期の農村

江戸時代中期になると、商品経済が発達し、土地や生産手段を失った多数の農民と、土地や生産手段を集積して豊かになる農民とで、農村が二分されるようになりました。

 

そうすると、土地や生産手段を獲得した農民たちは豪農層となり村を取り締まるようになり、逆に土地や生産手段を失った多数の農民たちは小前百姓小作人となりました。

 

村には、小前百姓や小作人とそれらの一般農民を取り締まる村役人層とが出来上がったのです。

 

②村役人

村役人とは、村方三役(さんやく)地方三役(じかたさんやく)などとも呼ばれていました。代官郡奉行指導の元で、村を治める管理を行っていました。

 

名前は地域によってそれぞれありますが、三役とは名主(庄屋、肝煎)組頭(年寄、脇百姓)百姓代(長百姓)のことです。

 

名主は、一村の長であり、組頭は名主を補佐し、百姓代は小前百姓の代表として、名主や組頭の監視係のようなものでした。名主や組頭は給料としての米をもらっていましたが、百姓代は無給でした。

 

また、いくつかの村を統括する大名主、大庄屋も存在していました。

 

③小前百姓

小前百姓は、小前とも呼ばれ、耕地や宅地を所有しており、年貢を治める本百姓のことを指します。また、村役人層に対して、それ以外の一般農民や水呑百姓も含めて小前と呼びました。

 

水呑百姓は、農民として年貢を納めない小作人であり、農家の二男や三男などが水呑百姓になることが多かったのです。また、農事に従事し、出稼ぎや日雇い労働もしていました。

 

そして、小前百姓は土地を持ちますが、水呑百姓は特別な権利や家格を持つ者ではありませんでした。

 

村方騒動の詳細

 

 

村方騒動では、具体的に何を訴えていたのでしょうか。

 

①村方騒動での訴え

年貢の割付けや納入や立替えに関するものが要求の中の大半を占めていました。また、村役人に与えられていた免税などの特典を廃止することもありました。

 

他に、村入用(むらにゅうよう)といった村政を運営するための村役人への給料や事務経費、橋や道や用水を造るための費用の負担に関する不正や不公平を訴えました。さらに、小作料の引き下げの要求もありました。

 

こうした生活に密着する要求、生活を改善するための要求を領主に訴え、改善させることが村方騒動の目的でした。

 

②ある事例では・・・

1792年2月、武蔵国都筑郡(現在の神奈川県横浜市都筑区)の村の百姓たちが以下のことを領主に要求しました。

 

要求内容

① 村入用の軽減

 

② 年貢や村入用の割付や勘定に百姓代を参加

 

③ 年貢納入期の役人接待費用を門割(かどわり)から高割(たかわり)に変更

 

④ 年貢納入経費を門割から高割に変更

 

村入用の費用や経費を門割で負担すると、貧農層には負担増になり富裕層には得な制度でした。逆に、高割では財力に応じて均等に負担することになります。

 

当初これらの要求はのみ認められましたが、関係帳簿などを整理していく間に、門割から高割への変更が認められていきました。

 

村方騒動と百姓一揆の違い

 

 

村方騒動における要求は地味ですが、その要求を実現させて、社会的にも一定の影響を与えました。

 

百姓一揆は規模が大きいものでした。参加する人数も多く、要求内容も幕府や大名に反抗するものが主でした。

 

また、物価が上がったり、飢饉や凶作が原因のものもあり、村方騒動のように生活に密着した具体的な要求というより、社会の不正や生活困難を上層部にアピールするものでした。

 

村方騒動と「打ち毀し」「代表越訴型一揆」「惣百姓一揆」の違い

①打ち毀し

打ち毀しは、百姓一揆が農村で起こったのにくらべて、都市部で起こったものでした。

 

18世紀半ばから米騒動などに見られるように、豪農や米穀商や高利貸しの家屋や家財を襲って破壊することです。

 

②代表越訴(おっそ)型一揆

百姓一揆の一形態であり、17世紀後半から各地の一揆で多く見られるようになりました。

 

村役人などの村の有力者が村の農民を代表して、農民たちの要求を訴えるという形を取りました。

 

代表的な人物として、下総国佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の佐倉惣五郎が挙げられます。

 

佐倉惣五郎は、佐倉藩200余りの村の名主として、農民の重税を直接将軍に訴えました。そのために、4人の子どもたちと一緒に処刑されました。

 

③惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)

これも百姓一揆の一形態で、18世紀後半から村役人を含め村の全農民が一致団結して起きた一揆のことです。

 

そのため、惣百姓一揆は大規模で藩全体に及んでいました。また、暴動を伴っていたというのも特徴的です。

 

例えば、1761年の信州上田で起こった惣百姓一揆では、藩の大部分の農民が参加して上田城になだれ込みました。年貢の軽減と農民を人足として使うことをやめる、郡奉行の不正を取り締まることを要求しました。

 

村方騒動の影響

 

事例で述べたように、村方騒動では百姓たちの要求が受け入れられていくことが多かったのです。

 

百姓たちの要求は、村の中できちんと明文化され、いわゆる法律のような形になっていきました。

 

村のこうした変化が郡の代官を通して幕府へも伝えられ、それが法令化されるということもありました。

 

法令化されると、一つの村の出来事ではなく、全国の村でも年貢の帳簿の整理がされたり、それを名主と小前百姓で確認し合うということにつながりました。

 

一つの村の騒動が全国的に広がって影響を及ぼすということがあったのでした。

 

まとめ

 村方騒動とは、江戸時代中期に一般農民である小前百姓が村役人層の不正や村政運営に関する改善を領主に訴えたものである。

 村方騒動の特徴は、身近な生活に密着した要求が多く、しかもその要求を実現させていたことにある。

 村方騒動は、農村が富農層と貧農層に二分され、村役人が村を運営するための権限を独占していたために起こった。

 村方騒動で実現された要求は、時に幕府により法令化され、全国に影響を与えた。




関連キーワード