古代の日本は、争いで分断されていた国々がある朝廷のもと、どんどんまとまっていきます。

 

それが、大和朝廷(やまとちょうてい)です。

 

大和朝廷によって、日本列島にあった国々のほとんどが統一されているため、日本の建国の歴史として外せない部分となっています。

 

ですが、この時代はまだ歴史を書いて残すということを行っていなかったため、ウワサや諸説でしかお話をすることができないのです。

 

今回は、大和朝廷の成立した時代やその場所、起源などについてわかりやすく解説したいと思います。

 

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大和朝廷はいつ成立したの?答えは不明!

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大和朝廷が成立した時代は、実は正確にはわかっていません。

 

では、その理由は何でしょうか。

 

①日本に歴史を残す習慣がなかったから!

先ほどもお話しのとおり、大和政権が成立した時代、日本では歴史を書き記すということができませんでした。

 

なぜなら、当時の日本には漢字やひらがなが存在しなかったからです。

 

そのため、この時代のことを知る手掛かりは、現在の中国に残る古い歴史書からでないとわからなかったのです。

 

では、どうやって大和朝廷のことを知ることができたのでしょうか。

 

その答えは古墳(こふん)にあります。

 

②大和朝廷登場より前は、古墳(こふん)の登場がカギになる

当時の日本には、数多くの古墳が残されていました。

 

古墳は、当時の王様や豪族(ごうぞく)のお墓のことを言い、王様や豪族の権威(けんい)のシンボルでした。

 

この大きなお墓は、3世紀から4世紀にかけて多く作られ始めています。

 

そこに、中国の歴史書をあわせてみると、古墳が日本各地に広がっていることが分かります。

 

同じ形の大きいお墓が全国各地に作られていたということは、統一していた家系や組織があると歴史学者さんたちは考えたわけです。それが、大和朝廷ではないかとされています。

 

そして、大和朝廷のもととなった国ができたのはこの頃であるとも考えられていて、4世紀末から5世紀に入ったころには、大和朝廷は全国をほぼ統一したと考えられています。

 

このあたりの年代を、大和朝廷が成立した時代としたのです。

 

大和朝廷の場所はどこ?

 

次に、大和朝廷の場所はどこなのかをお話ししていきます。

 

実は時代によって、大和が持っていた権力の範囲は変わってきますが、はじまりは現在の奈良全域と、京都・大阪・兵庫の一部とされています。

 

奈良県といえば、昔は「大和国(やまとのくに)」とも呼ばれていたため、大和朝廷と関係があることがわかります。

 

ですが、大和朝廷自体も、実際どこにあったかはハッキリしなく謎だらけです。

 

今わかっているのは、大和朝廷の範囲は4世紀中ごろには、西日本を統一するまでになり、8世紀になると、今度は東日本まで力をを拡大していたとされています。

 

大和朝廷と邪馬台国と関係はあったの?

 

大和朝廷と邪馬台国(やまたいこく)って何か関係あるの?と授業を受けてなった人もいるかと思います。

 

実は大和朝廷と邪馬台国の関係も、歴史書が中国にしか存在していないため、ちゃんとしたことは明らかになっていません。

 

そのため、2つの国の関係には、いろんな説が出ています。

 

①大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の豪族説

大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の豪族であるという説があります。

 

邪馬台国は、九州と近畿(きんき)地方(大坂・京都・奈良周辺)のどちらかにあったという説が有力となっています。

 

大和朝廷があったとされるのは、奈良県を中心とした近畿地方とされていることから、邪馬台国がもし近畿地方にあったとしたら、大いに考えられる説ですよね。

 

②邪馬台国が大和朝廷に征服された説

一方では、大和朝廷が勢力拡大の際に、邪馬台国を征服(せいふく)したという説もあります。

 

さきほど、邪馬台国は九州と近畿地方のどちらかにあったと考えられているお話をしました。

 

これは、もし大和朝廷が西日本に領土を広げるために邪馬台国を攻撃したとするならば、邪馬台国は大和朝廷にほろぼされたという説です。

 

中国の歴史書によれば、邪馬台国にいた女王・卑弥呼(ひみこ)がなくなったのは240年から249年ごろとされています。

 

そのあとに、男性の王が即位したものの、政権が乱れ、新たな女王が誕生したところ、争いがおさまったとされています。

 

邪馬台国が歴史書に残っているのはここまでで、その後どうなったかは定かではありません。

 

しかし、3世紀になると、大和朝廷のシンボルといえる大きな古墳が登場し、592年には飛鳥時代がスタート。飛鳥時代に入ると、仏教の影響もあって、古墳が見られなくなります。

 

新たな女王が即位した後から、古墳が現れるまでの空白はに何が起きたかは、今もわかりません。

 

ここがはっきりすれば、大和朝廷と邪馬台国との関係もハッキリするでしょう。

 

大和朝廷の中心人物は?ワカタケル大王

(ワカタケル大王“雄略天皇” 出典:Wikipedia)

 

謎だらけの大和朝廷ですが、どんな人物が中心となっているのでしょうか。

 

それは、埼玉県と熊本県で見つかった鉄剣が答えを出してくれています。

 

その名はワカタケル大王(ワカタケルだいおう/ワカタケルおおきみ)という人物です。

 

埼玉と熊本の古墳から見つかった鉄剣からわかったこと

埼玉県にある稲荷山古墳(いなりやまこふん)から、「ワカタケル大王」と名前の刻まれた鉄剣がみつかりました。

 

この鉄剣に刻まれた文はというと、この埼玉周辺にいた王様は、ワカタケル大王に仕えていたと書いてあります。

 

また、熊本県にある江田船山古墳(えだふなやまこふん)から発見された鉄剣にも、埼玉のものと同じ「ワカタケル大王」の文字が刻まれていました。

 

このことから、ワカタケル大王が埼玉から熊本の間を支配していた人物である、ということが明らかとなりました。

 

このワカタケル大王は、その後記される日本の神話が載った「古事記(こじき)」や後の日本の歴史書「日本書紀(にほんしょき)」にも出てくる「ワカタケル」という人物の存在が書かれています。

 

そのため、「ワカタケル」という人物が存在したということが判明するのです。

 

大和朝廷には渡来人がいた!?朝鮮半島と大和朝廷の関係は?

 

大和朝廷には、朝鮮からの渡来人がいたと考えられています。

 

後の日本の歴史書「日本書紀」には、百済(くだら)の王様が、倭国(わこく/日本)に友好のしるしとして刀を送っています。

 

この刀の刀身には漢字で文章が刻まれていました

 

このことから、当時の大和朝廷には漢字を理解できる人がいたと考えられます。

 

しかも、この漢字を理解できたのは純粋な倭国人(日本人)ではなく、朝鮮半島からやってきた渡来人であったと言われています。

 

漢字を伝えた人物がいた

どうやら、当時の日本には、4世紀末ごろに、百済から漢字を伝え人物がいるという伝説があります。

 

また、多くの朝鮮人が、渡来人として日本にやってきていました

 

考えてみれば、大和朝廷以前は、歴史を文字で記す文化がありませんでした。

 

さらには、庶民は弥生時代と同じような生活をしていたとされていて、庶民は当然、文字を使うということもありませんでした。

 

そのため、「ワカタケル大王」の鉄剣があったこと、7世紀に突然「万葉がな(まんようがな)」と呼ばれる文字文化が登場しているのもおかしい話です。

 

このことから、文字を理解したのは上流階級の人であったこともうかがえます。

 

大和朝廷には漢字を理解する人がいて、それは渡来人であったという可能性が考えられるのです。

 

 

まとめ

 大和朝廷が成立した時代や具体的な場所はあきらかになっていない。その理由は歴史を文字で記す習慣がなかったから。

 大和朝廷について知る手がかりは古墳と中国の歴史書にある。この古墳が3世紀から4世紀に作られはじめ、4世紀末から5世紀最初には全国に見られることから、大和朝廷の繁栄(はんえい)時期を推測することができる。

 大和朝廷は現在の奈良県全域と、京都・大阪・兵庫の一部を中心に、埼玉・熊本にまで及んでいたことがわかっている。

 埼玉と熊本まで及んでいた理由は、「ワカタケル大王」の文字が刻まれた鉄剣が、それぞれはっけんされたから。

 大和朝廷の重要人物は「ワカタケル大王」であることもわかっている。

 大和朝廷と邪馬台国との関係も明らかにはなっていない。しかし、いろんな説ある。

 大和朝廷には、漢字を理解する、朝鮮から来た渡来人がいたとされている。それは百済(くだら)の王と倭国が友好のしるしに送った刀剣から推測されている。

 埼玉と熊本で発見された鉄剣にも漢文で「ワカタケル大王」などの文字が入っていることからも、漢字文化があったことがわかり、大和朝廷にいた人物たちが使用していたとされている。